◆史跡案内=銅像◆京都、東京

 (ダブル)和気清麻呂像

 ほかにも、和気氏の出身地である岡山県の和気神社など、
 各地に清麻呂像はあるそうですが、今回は私の訪れた2つをご紹介。

  ※和気清麻呂(わけのきよまろ、733~99)
     奈良時代の政治家。備前国藤野(和気)郡出身。
     孝謙上皇に近侍していた姉・広虫(ひろむし、法均尼)の推挙により立身、
     和気氏はこの二人の代から中央に出仕したらしい。
     神護景雲3年(769)、「宇佐八幡神託事件」に際し、
     神託を受けて道鏡の即位を阻止、流罪となる。
     のち許されて光仁・桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力。
     民部卿・造宮大夫・従三位。


 ■京都府京都市上京区・護王神社内

清麻呂 護王神社

 写真の感じで伝わると思いますが、意外に高さはありません。
 向かって左後方にチラッとのぞいているのは「さざれ石」。

護王神社

 護王神社には、ふつうなら狛犬のところが、「狛いのしし がいるのが特徴。

 神社による「由緒」では、清麻呂は、幕末の孝明天皇の時代に
 正一位護王大明神の神階神号を賜ったそうな。
 明治7年(1874)に、洛西高雄山神護寺内の清麻呂の霊社が別格官幣社に列せられ、
 現在の蛤御門前に遷されたということです。

 主祭神は和気清麻呂命と広虫姫命、藤原百川公命と路豊永卿命が配祀。

 百川(ももかわ)は清麻呂が流されたときにひそかに援助していたとされる人物。
 路豊永は……? 『日本後紀』清麻呂薨伝(延暦18年2月21日条)に載っています。
 清麻呂が宇佐へ向かう前、道鏡ダメ論を清麻呂に吹き込んでいた(?)人物です。

   道鏡若登天位。吾以何面目可爲其臣。吾與二三子共爲今日之伯夷耳。
   (道鏡が皇位に登る世なら、隠棲して飢え死にしたほうがマシ)←意訳

 同じ薨伝に、垂仁天皇の子孫・弟彦王が、吉備で忍熊皇子らの反乱を鎮めて
 この地を一部賜った、その子孫が清麻呂であるといいます。
 記紀では、同時に立ち上がった兄の香坂皇子が、赤い猪に食い殺されたとあります。
 このあたりから、猪が出てくるのでしょうか?
 護王神社の伝えでは、足を痛めた清麻呂の道中を救ったのが猪とされています。
 
 

 ■東京都千代田区・大手町大手濠端

清麻呂 皇居

 こちらは護王神社の像よりも高さがあります。

 ぐっと見上げる感じ。こんなふうに。

皇居清麻呂下から

 お~立派☆ 

 昭和15年(1940)、神武天皇即位紀元2600年事業の一環として、
 武を代表する楠正成公像とともに、文を代表する和気清麻呂像が建てられたそうです。
 像の裏に「建設委員長 陸軍大将 林銑十郎」のプレートがあります。









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