定家と式子
 杉田圭『超訳百人一首 うた恋い。』メディアファクトリー、2010年

   思ふこと 空しき夢の なか空に たゆともたゆな つらき玉のを

 私の大好きな漫画の記念すべき第一作。
 百人一首の恋の歌を漫画のストーリーに仕立てた作品です。

 なかでも、この式子内親王藤原定家のストーリーに惚れて、
 以来、このシリーズを欠かさずチェックしています。

 この場面は、式子の百人一首に採られた有名な歌
   玉のをよ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする
   (この恋を忍ぶことにいつか耐えられなくなるくらいなら……
    私は今消えてもかまわない) ※上掲書の超訳より
 に対して、想いをこらえきれない定家が返す歌です。

 このシーン、大好きなんです~




 けど。現実には。

 この定家の「返歌」は、定家の私家集「拾遺愚草」にある一首で、
 実は定家が50歳を過ぎてから詠んだもの。

 定家は1162年生まれですから、式子が亡くなった1201年よりも、
 さらに10年はあと、ということになります。

 しかし、定家の歌をこよなく愛した詩人の塚本邦雄は、こう言います。

   しかし「絶えなば絶えね」と「絶ゆとも絶ゆな」は時を隔てて呼応してゐる。
      [塚本『定家百首/雪月花(抄)』2006年、講談社文庫版、114頁、原文旧字]


 確かに、そのとおり。
 リアルタイムな相聞歌ではないけれど、時を隔てた相聞歌ではないか


 こんな歌をのこされては、二人の間に恋の噂が立つのもゆえなしとはできません。




 実際の関係はどうだったのでしょう。もちろん、真実はわかってはいません。

 性別や身分のちがいがありますから、直接定家が式子を目にすることはなかったでしょう。

 (本当に恋愛関係にない限り、ですがw)

 ただ、二人の縁は浅からぬものがあります。
 定家の父俊成は式子の歌の師であり、同母姉の一人は式子に仕えていました。

 式子は定家より13歳年上の内親王(後白河帝の第三皇女)で、
 しかも神聖なる元賀茂の斎院(11歳で卜定、21歳で病を得て退下)。

 初めて式子の許を訪れたときの記録が定家の日記『明月記』にあります。
 治承5年(1181)、定家20歳、式子33歳の年です。

   参三条前斎院(式子)、今日初参、依仰也、薫物馨香芬馥  [治承5<1181>・1・3]

 父の命により式子の許に参上したわけですが、いい香りと言ってます

 そして二度目の訪問。

   入道殿如例引率令参萱御所斎院(式子)給、有御弾箏云々  [同年・9・27]

 例によって父に連れられて行くと、今度は琴の音が……


 定家晩年の個人的メモといえるもの(「定家小本」と呼ばれる)があるそうです。
 興味を惹かれたのは、冒頭に、式子に関する覚書があるというのです。[吉田幸一「解題 定家小本」、未見]
 自身のためのメモ的性格と思われるものの冒頭に、式子のこと……
 しかもだいぶ時の経った晩年に……。


 二人は歌を通じて意識し合う関係であったことはまちがいありません。
 美しい印象の出逢いと、長く生きた定家の晩年まで胸に残る存在であった式子。
 少なくとも、定家にとっては、式子内親王は大きな存在だったのではないでしょうか。

 最初にあげた歌が、ますます相聞歌にきこえてくるようです。


 [参考文献]
 久保田淳座談集『空ゆく雲 王朝から中世へ』笠間書院、2012年
 平井啓子『コレクション日本歌人選010 式子内親王』笠間書院、2011年


 関連記事:定家と式子内親王の“噂”の話


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