◆漢詩特別篇:有智子内親王の生涯◆史跡案内 京都 有智子内親王墓

 古典シリーズ「漢詩」で、有智子内親王と父嵯峨天皇の漢詩をみてきました。

  嵯峨天皇、娘へ贈る漢詩
  有智子内親王、父へ贈る漢詩

 ではこの有智子内親王とは、いったいどのような女性だったのでしょう。


 有智子(うちこ)内親王は、嵯峨天皇第8皇女。大同2年(807)、
 舎人親王の孫・山口王の娘である交野(かたの)女王を母として生まれました。

 嵯峨天皇の配偶者で有名なのは、橘嘉智子(檀林皇后)ですが、
 有智子はその所生ではなく、ほかに同母のきょうだいもありませんでした。
 いずれも嘉智子所生の仁明天皇(正良親王)や淳和天皇皇后(正子内親王)
 よりも、3歳ほどお姉さんになります。


 彼女が生まれたころ、父はまだ天皇ではなく、皇太弟・賀美能(かみの)親王といいました。
 即位していたのは、桓武天皇第1皇子で同母兄の安殿(あて)親王、平城天皇です。

 大同5年(810=弘仁元年)、弟(嵯峨天皇)に譲位していた平城太上天皇と
 天皇方との対立から勃発したいわゆる「薬子の変」が落着すると、
 天皇の娘の有智子がわずか4歳(数え)賀茂の斎院 に卜定されました

 動乱のさなか、天皇が賀茂大神に神助を祈って、「変が無事鎮定されれば、
 皇女を捧げて奉仕させましょう」と誓ったからであるといわれます。

 なお、「一代要記」「本朝女后名字抄」などではこの年のこととしていますが、
 「帝王編年記」などでは弘仁9年(12歳)の卜定とされています。

 いずれにせよ、幼いころから有智子は神に仕える身であったといえましょう。


 そしてここに、賀茂斎院の制度がはじまったのです。
 つまり有智子内親王は、のちに有名な歌人・式子内親王らもつとめることになる
 「賀茂斎院」の初代 なのです。

 賀茂は洛外とはいえ、伊勢の斎宮とはちがってごく手近な場所にあります。
 都から近いせいか、斎院はほぼ内親王がつとめました。
 (斎宮は「内親王」より格の下がる「女王」も少なくなかった)
 比較的手近ですが宮中の賑わいからは隔離された閑静で風雅な拠点として、
 斎院は都人の関心を惹き、文化的サロンをなしていきます。
 その嚆矢となったのが、漢詩人として名高い有智子内親王だったのでしょう。



 さて、しかしながら有智子について知る材料は少なく、もっともまとまった史料は、
 正史『続日本後紀』承和14年(847)10月26日の死没時の記事です。

 弘仁14年(823)2月、父・嵯峨天皇の斎院花宴行幸のこと。
 有智子の詠んだ漢詩は、当代随一の漢詩人でもあった父をうならせ、
 その場で三品と封百戸を賜ったそうです(833年に二品)。有智子17歳でした。
 さらに、「これからもおごらず詩作の道に励め」という意の詩も賜りました。
 この逸話での漢詩が、いままでとりあげた「嵯峨天皇、娘に贈る漢詩」と
 「有智子内親王、父に贈る漢詩」(上にリンクあり)というわけです。

 そのほか「経国集」「雑言奉和」をあわせ、計10首の漢詩が伝わるのみです。
 うち8首を残す「経国集」は、全20巻のうち6巻しか伝わっていないことから、
 もっと多くの詩が入集していたと思われます。

 「経国集」は淳和天皇の時代に編纂された勅撰漢詩集で827年成立、
 有智子は21歳です。それ以前の嵯峨天皇時代の「凌雲集」(814年ころ)
 「文華秀麗集」(818年)には詩は掲載されていませんから、
 彼女の詩作時期は、10代なかばからと推測されます

 なお「経国集」以後薨去まで20年間に詩が残っていないのは、
 『白氏文集』渡来後の新しい詩風に溶け込めなかった可能性も考えられます。
 しかしおそらく有智子の親しんだ弘仁朝の文才たちや、
 承和9年(842)に嵯峨天皇が亡くなるまで、詩作は続けられたのではないでしょうか。

 有智子が斎院を辞したのは、「本朝女后名字抄」によれば
 淳和天皇の天長8年(831)、病のためとされています。
 810年からの在任とすれば、実に22年間近く賀茂にいたということになります。

 斎院は伊勢の斎宮と異なり、天皇の代替わりごとに交替するというわけではなく、
 後代には「大斎院」と呼ばれた選子内親王(村上天皇皇女)が
 天延3年(975)から56年4か月の長きにわたり斎院をつとめました。

 
 有智子内親王ですが、亡くなるときには嵯峨西荘にありました。
 退任後は嵯峨でひっそりと暮らしたものと思われます。

 享年41歳。薄葬と朝廷からの葬使の辞退を遺言していたそうです。

 正史は、有智子について述べます。

   「頗渉史漢、兼善属文」(「史記」と「漢書」によく通じ、さらに文章を得意とした)、
   「性貞潔」(人柄は貞節)……


 有智子のすごいところは、かな文字もまだ誕生していない時代ですから、
 女性が漢文を操って男性に伍したという点だと思います。
 また、このころは文学といえば経国思想(文章の能力で官僚の力量をはかる、
 詩文をもって政道を示す、文学そのものが治世の術、といった考え)ですから、
 ますます女性の入る隙はなかったはずです。
 そうしたなか、皇族に限っていえば、文化的にもトップであった
 嵯峨天皇の次に位置するほどの評価を得ていました

 このあと、平安中期あたりにはすでに、紫式部や高階貴子(定子の母)らの
 例に顕著なように、「女が漢詩なんて生意気だ」のような風潮がうかがえます。
 上流女性には漢詩の教養もあったはずですが、ひけらかすものではない、と……。

 こうしたことからも、有智子内親王は、
 日本史上孤高の女流漢詩人
 となっているのです。 



 [参考文献]
 『日本女流文学史』同文書院、1969年
 岩佐美代子『内親王ものがたり』岩波書店、2003年

 森田悌『全現代語訳 続日本後紀(下)』講談社、2010年

 
  *  *  *

 有智子内親王の墓は、嵯峨の観光名所「落柿舎」の西に隣接した地にあります。

 有智子墓1

 嵯峨野を歩いていきます。

 野宮神社も過ぎて、落柿舎の西隣……

 有智子墓2

 有智子墓3

 本当に接しているので、知らないで外から見ると落柿舎の一部かと思ってしまいます。

 駅前からは少々歩くので、お墓から見えるのは静かな田園風景と嵐山……
 上は晩夏の写真ですが、紅葉の秋はいい眺めなんでしょうかね。


 
 ▲拡大すると落柿舎の西隣に「嵯峨天皇皇女有智子内親王墓」が見えます



゚・:,。゚・:,。★ ↓↓↓ 古代史推進のために! クリックしていただけるととても嬉しいです゚・:,。゚・:,。☆
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

日本史 ブログランキングへ