◆小倉百人一首 歌・解釈・歌人・書道作品◆第3回
   11~15番(小野篁・遍昭・陽成天皇・源融・光孝天皇)

  * * *
 藤原定家が小倉山荘で撰んだという「小倉百人一首」。

 かるたとして、歌の基本学習として、かな書道入門として、
 さまざまに親しまれています。

 飛鳥時代の天智天皇からはじまり鎌倉時代の順徳院まで、
 「百人一首」がほぼ時代順に並びます。

 天智天皇から5首ずつ、全20回で歌・解釈・歌人について、
 を書道作品入りでまとめました。
  (一番下にある各首の冒頭の番号をクリックしてください。
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 ◆第3回:11~15番

 今回は、篁や遍昭といった説話的にも面白い人物がそろっていますが、
 陽成天皇退位という重大な政治劇にかかわる人物が3人もいるので、
 そのことを簡単にお話ししたいと思います。

 元慶8年(884)2月4日、陽成天皇は退位し太上天皇となります。
 『三代実録』の当日条によれば、病のためと自ら譲位の意を呈しています。
 その前年11月10日の条に、陽成の乳母子源益が殿上にて格殺される
 という事件が記されており、犯人についてはいっさい語られず伏せられています。
 近しいと思われる陽成が関与したのではないか? もしも関与しなかったにしろ、
 殿上での殺人事件の影響による退位との推測がなされています。

 ともかく事実としては、このあと「光孝天皇」が誕生するわけです。

 仁明天皇第3皇子・時康親王という人で、このとき55歳。
 退位した陽成が17歳ということを差し引いても、当時の即位年齢としては高い。
 なぜこの人に皇位がまわってきたのか……選択の理由も過程も謎です。

 嵯峨源氏の「河原左大臣」源融などが、「近き皇胤を尋ねば融らも侍るは」(『大鏡』)
 と言って即位の望みをみせたともされるのも、このときの出来事です。

 融の場合は臣籍に降っており、即位の可能性はないと思われますが
 (光孝天皇のあとの宇多天皇も臣籍に降っていたが、それはこのあとの話)、
 参考までにこのとき即位の可能性をもったおもな人物リストをあげておきます。

 陽成退位系図

 赤い四角で囲った人物がこの時点での有資格者です。

 陽成の退位が穏当なものであれば、同母弟の貞保親王が即位しそうです。
 もし、当時勢力をもったといわれる藤原基経が強行するならば、
 陽成の異母弟・貞辰親王は基経の娘・佳珠子の所生ですから、
 10歳に満たない子どもであろうと即位してもおかしくはない。
 また『扶桑略記』などによれば、このとき恒貞親王擁立運動もあったようで
 (出家の身だとして本人が固辞)、まさに混沌としています。

 光孝(時康親王)の生母(藤原沢子)が基経生母と姉妹であったから、とか、
 光孝の子(のちの宇多天皇)が基経の異母妹の猶子であったから、とか、
 いろいろいわれますが、どうも説得力がありません。




 11番 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
   参議篁

 12番 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ 
   僧正遍昭

 13番 筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる 
   陽成院

 14番 みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに 
   河原左大臣

 15番 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ 
    光孝天皇




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