今回から二回にわたって、「承香殿女御」について追ってみたいと思います。

 「承香殿」(じょうきょうでん)とは、天皇と后妃の日常の居住空間である内裏のなかの、
 局のひとつの名称です。

 内裏のうちおもに后妃の住まいにあてられる殿舎を、「五舎七殿」と称します(後宮)。
 五舎は飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺)、襲芳舎(雷鳴壺)、昭陽舎(梨壺)、淑景舎(桐壺)、
 七殿は承香殿、常寧殿、貞観殿、弘徽殿、登花殿、麗景殿、宣耀殿。
 通常、「殿」のほうが「舎」よりも格式は高いとされていました。

 Wikipediaから「平安京内裏図」をお借りしました。
 おおまかな位置関係をみていただければと思います。

 内裏図

 平安時代において中期以降、清涼殿が天皇の日常生活の場として用いられることが
 ほとんどとなりました。

 本来「后町」の別称をもつ常寧殿がはじめ皇后御所として建てられたのですが、
 じきに弘徽殿が皇后・中宮の御所となっていきます。

 上の図をみると理由が分かりますね。

 天皇はふだん清涼殿にいて、后妃を“お召しになる”わけです。
 后妃は清涼殿を訪れることになります。

 古典「源氏物語」を漫画化した、大和和紀『あさきゆめみし』にこんな絵があります。

 asaki
 ▲大和和紀『あさきゆめみし』1巻、講談社コミックスmimi版、昭和55年


 当時の帝(桐壺帝)に愛された、のちに光源氏の母となる女性「桐壺更衣」
 (本来女御よりも位の低い更衣が局を賜ることはないと思われますが、
 この名は桐壺の局を賜っていることを示します)。
 あまりの寵愛ぶりに、後宮中の恨みを買います。彼女が帝の許へ行くには、
 上の内裏図を見てもわかるとおり、多くの局の前を通過しなければならないのです。

 つまり、有力な後ろ盾をもつ女性は、初めから清涼殿近くの局を賜るはず。


 それが弘徽殿(こきでん)で、宇多天皇女御の藤原温子(基経女)や
 醍醐天皇中宮藤原穏子(基経女・温子異母妹・村上、朱雀天皇母)、
 加えて村上天皇中宮藤原安子(師輔女・冷泉、円融母)も最後は弘徽殿を用いました。
 まさに錚々たる顔ぶれ!

 もちろん、すべてが原則通りではありませんが、弘徽殿には、“第一のきさき”
 “圧倒的な権力をもつ中宮や母后”のイメージがあったのではないでしょうか。


 また、格が下がるとされる「舎」である飛香舎(藤壺)ですが、清涼殿にも近く、
 こちらもめでたいイメージがあったかと思われます。
 なぜならば、上記の藤原安子が生涯おもに使用したのはこの局だったのです。
 安子は村上天皇となる成明親王の東宮時代に嫁し、藤壺で婚儀をおこないます。
 以来基本的に弘徽殿ではなく藤壺を在所としつづけました。

 このためか、のちに道長の娘彰子(一条天皇中宮)や威子(後一条天皇中宮)らが
 入り、さらにイメージアップしたと思われます。


 たしかに、先にあげた古典「源氏物語」を通しても、もっとも印象的な后妃は、
 “弘徽殿”と“藤壺”ではないでしょうか。
 もちろんこのふたつの局の名を冠する女性は、ともに一人ではありませんが、
 おのおの印象的なのは、前半の右大臣の娘、桐壺帝に入内して朱雀帝を生んだ
 「弘徽殿女御」、そして桐壺帝の中宮、冷泉帝の生母、そして光源氏生涯の憧れ、
 物語の象徴的ヒロインともいえる“藤壺の宮”ですよね。

 
 ところで、「源氏物語」に承香殿女御って出てきたっけ……?
 承香殿って、そんな影の薄い存在です。
 上の図をみても、清涼殿に近くて、しかも格の高い「殿」だし、位置的にも内裏の
 中心に近く、宴や儀式の舞台になることもある、まさに格上の局なのです。

 なのに……この影の薄さ……
 史実の「承香殿女御」も、実は、ちょっと残念な印象がつきまとうのです。


 =以下、後半へつづく= =おまけ(弘徽殿女御編)=


  [参考文献]
  栗本賀世子『平安朝物語の後宮空間―宇津保物語から源氏物語へ―』武蔵野書院、2014
  小町谷照彦・倉田実編著『王朝文学文化歴史大事典』笠間書院、2011



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