◆小倉百人一首 歌・解釈・歌人・書道作品◆第4回
   16~20番(在原行平・在原業平・藤原敏行・伊勢・元良親王)

  * * *
 藤原定家が小倉山荘で撰んだという「小倉百人一首」。

 かるたとして、歌の基本学習として、かな書道入門として、
 さまざまに親しまれています。

 飛鳥時代の天智天皇からはじまり鎌倉時代の順徳院まで、
 「百人一首」がほぼ時代順に並びます。

 天智天皇から5首ずつ、全20回で歌・解釈・歌人について、
 を書道作品入りでまとめました。
  (一番下にある各首の冒頭の番号をクリックしてください。
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 ◆第4回:16~20番

 在原行平が業平の異母兄であること※は有名ですが、
 藤原敏行も、婚姻関係をつうじて業平と深い関係があります。

   ※在原氏
  行平と業平の父は阿保親王(業平のみ内親王腹)。
  桓武天皇の第一皇子である平城天皇の第一皇子でした。
  平城天皇(太上天皇)といえば、薬子の変で弟の嵯峨天皇に敗北。
  第一皇子であった阿保も大宰権帥として左遷されます。

  帰京後の天長3年(826)、上表により子息の行平・業平らが
  在原を賜姓され、臣籍降下となる。


 さて敏行の歌人としての華麗なる系図は、以下の通り。
 六歌仙の業平だけでなく(業平とは妻同士が姉妹の「相聟」である)、
 『古今和歌集』の編纂で有名な紀貫之・友則とも縁をもちます。

 敏行の系図

 この敏行、業平の相聟だけあって(?)、なかなかの女好きであったとか
 業平とちがうのは、それが悪評として後世でのイメージダウンになっていること。


 『宇治拾遺物語』巻第八の四話に「敏行朝臣の事」があります。
 ここで敏行は地獄へ連れていかれ、人から頼まれた法華経をいい加減な気持ちで
 書いたため、罰を受けています(敏行は能書家でありました)。

 「魚をも食ひ、女にも触れて、清まはる事もなくて、心をば女のもとに置きて」
 書いたというのです。金光明経を書くという願を立てて許され現世へ戻りますが、
 またあっちの女へこっちの女へと遊びまわり、果たさぬまま寿命が尽きてしまいます。
 死後また罰を受け、友人の紀友則の夢枕へ現れ、救いを求めます。
 友則と三井寺の僧の尽力で、敏行の死後の罰は少し軽くなったそうです。
  [小林智明校注・訳『日本古典文学全集28 宇治拾遺物語』小学館、昭和48年]

 尊卑分脈(室町時代成立)の敏行の欄には、堕地獄人とも書かれているそうで、
 たいそう評判が悪かったように思われます。
 能書家というわりには、「伝敏行筆」のようなものがないのも悪評のせいでしょうか。

 もちろん説話=実話ではありませんが、こんなお話を残されてしまうのは、
 相当いい加減な人柄だった? 真偽は措いても、これじゃあ真筆に有難味がないですよね。

 同じ話が『今昔物語集』巻十四の二十九にありますが、「橘敏行」の名になっています。


 親戚の紀友則との交流は事実のようで、『古今和歌集』哀傷歌(833番)に、
 敏行の死を悼んだ友則の歌が載っています。

   寝ても見ゆ 寝でも見えけり おほかたは うつせみの世ぞ 夢にはありける

  訳:亡き人の姿は、寝ていても夢に見える、寝なくても面影に見えるのだ。
    おおよそ、はかないこの世こそが夢であったのだ。
    [高田祐彦訳注『新版 古今和歌集』角川学芸出版、平成21年]

 この歌が説話のもとになっていることはほぼまちがいないでしょう。


 たぶん、女好きは本当だろうな……という気がします。



 16番 たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む 
   中納言行平

 17番 ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
  在原業平朝臣

 18番 住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
  藤原敏行朝臣

 19番 難波潟 みじかき葦の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや
  伊勢

 20番 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
  元良親王


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