◆藤原氏系図・1◆鎌足編 第三回

 藤原氏系図をランダムに作成しています。
 系図に登場する人物や系図の背景なども、ご紹介していきます。
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 鎌足系図 改
 第三回 鎌足の息子たち(定恵・不比等)

 簡単人物&背景紹介第三回は、男子にスポットを当てましょう。

 定恵(貞慧) じょうえ。俗名・真人。643-665。
  653年、仏門に入り、学問僧として遣唐使に同行。

 不比等(史) ふひと。659-720.8.3
  奈良時代初期の太政官首班。贈太政大臣正一位。淡海公。
  文武天皇・聖武天皇に娘を納れる後宮政策をとる。


 この兄弟は本当に謎めいていますね。
 まず長男の定恵が生まれてから不比等が生まれるまで16年も空いていますが、
 当時一粒種であった真人が出家させられていることが最大の謎です。
 不比等誕生以前、従兄弟の子である意美麻呂を猶子として家を継がせようと
 までしています(前回・女子編を参照)。

 とにかく真人=定恵は謎です。
 『藤氏家伝』によれば、654年入唐、665年の帰国途中、百済人に能力を妬まれ、
 毒を盛られたため帰国後に歿したとされています。
 鎌足没後に帰朝し70歳で遷化した話も別に伝わるなど、謎に包まれています。


 さて、『尊卑分脈』では兄弟ともに車持君与志古娘が母とされ定説化していますが、
 これに疑問を呈する向きもあるようです。

 定恵の母は孝徳天皇寵妃阿倍氏(小足媛)である可能性がある。
 真偽はともかく、もしそうした疑いが当時から周囲の認識にあったとすれば、
 後継問題の不自然さは納得できます。

 一方、不比等の母は鏡王女であるとの説もあるそうです。
 鏡王女は『万葉集』に鎌足との贈答歌も残る彼の妻ですが、
 鏡王の娘で額田女王の姉といわれています。「鏡」という名の王女で、
 中大兄皇子の異母姉妹であったという説もありました。
 いずれにせよ、不比等は王族の血を引くことになるわけです。

 功臣・鎌足が3人もの娘を皇族に納れたのは画期的だと思いますが、
 突如現れたかのような不比等がこの政策を引き継げたのも、
 血筋のよさに一因があるのかもしれません。
 ただそれが真実とすれば、なぜ車持氏説が伝わっていたのか?
 (不比等を擬したと思われる『竹取物語』の登場人物は「くらもち(車持)のみこ」)
 高貴な血をアピールしなかったとすれば、腑に落ちません。

 初期の藤原氏には謎がいっぱいです!

 [参考文献]
 田村圓澄『藤原鎌足』塙書房、1966年
 高槻市教育委員会『藤原鎌足と阿武山古墳』吉川弘文館、2015年
 高島正人『藤原不比等』吉川弘文館、1997年


 ☆第一回 鎌足
 ☆第二回 鎌足の娘たち(女子編)


 ☆ ☆ ☆ 
 ☆このシリーズの系図について☆
 
 参考文献は以下のとおり。
 作成方法など詳細は、「作成につき」の頁をご覧ください。
 ・『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男監修、講談社、2003年) ・『国史大辞典』(吉川弘文館)ほか日本史辞典類
 ・史料『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』『群書類従 系譜部』『続群書類従 系図部』、六国史 ・適宜、先行研究書籍

 系図内のきょうだい出生順は原則として左を年上としていますが、
 作図の都合や事実不明などによりすべてとは限りません。



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