一定数の優れた歌人の名を並べ掲げ、和歌の先達として敬い、
 詠作の規範とする「歌仙」――『万葉集』巻十七の中で大伴家持らが
 柿本人麻呂と山部赤人を仰いだ題詞にはじまるといいます。

 僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主の「六歌仙」は、
 紀貫之の手に成るといわれる『古今和歌集』「仮名序」にその名が挙がったことに
 由来する(この時点で「六歌仙」のネーミングはないものの)として有名ですが、
 歌仙の数がぐっと増える「三十六歌仙」となると、全員をスラスラ言える人は
 それほどいないのではないでしょうか。もちろん私も言えません(笑)

 というわけで、「三十六歌仙」にはどんな人がいたのか
 なるべく覚えられるよう、ちょっと整理してみようかと思います


 まずは「三十六歌仙」の定義からですが、藤原公任の三十六人撰に収められた
 歌人の総称
です。これら36人の家集をまとめたものを、「三十六人集」といい、
 もっとも古く美しい写本が、「西本願寺本三十六人家集」です(古い部分は院政期)。

 道子筆
 ▲藤原道子筆「躬恒集」部分:12世紀初頭 「西本願寺本三十六人家集」より
  ※別記事より:承香殿女御・後編

 伝えられる『三十六人撰』が生まれたきっかけ、というのがなかなか楽しい。
 編者は、藤原道長と同時代(同い年)の、藤原公任(きんとう)(966-1041)。
 別名「四条大納言」、権大納言まで昇った人物で、文化人として特に有名。

 これまた文化人として著名な具平親王(村上天皇皇子)と歓談中のこと
  公「紀貫之は“歌仙”ですよ」
  具「柿本人麻呂には及ばないだろう」
  公「さて、どうでしょうか」
 と、さっそく貫之と人麻呂の秀歌10首ずつを挙げ、後日合わせてみた(歌合の意)。
 8首が人麻呂勝、1首が貫之勝、1首は持(じ=引き分け)。
 これが発展して、のちに三十六人撰になったという。
  『袋草紙』上巻より  藤岡忠美校注『新日本古典文学大系29 袋草紙』岩波書店、1995、参照


 これより前に公任には『前(さきの)十五番歌合』という撰集があり、
 具平親王との会話、『三十六人撰』と発展していったといわれています。
 (『三十六人撰』の前身として親王に贈った『三十人撰』があったという=散逸)
 公任考案の時代を超えた歌合という新様式は、後世に大きな影響を与えます。

 こうした話からも、本当に公任は、
   文化のカリスマ
 だな、と心底思いますね。

 本人も「三船の才」と称されたように漢詩・和歌・管弦なんでもござれ、
 さらにアンソロジーに新しいスタイルを生みだして一世風靡。
 漢詩と和歌のエッセンスを詰め込んだ『和漢朗詠集』も彼の傑作アンソロですし、
 歌学書『新撰髄脳』『和歌九品』を著して追随者を輩出、
 有職故実書『北山抄』も長く貴族の定番となる……
 ファッションリーダーならぬカルチャーリーダーだったと思います。


 話が公任サマ方向に大きくずれてしまいましたが
 以上が三十六歌仙(元祖)の大まかな背景です。
 元祖と仮につけてみたのは、このあと「中古三十六歌仙」や「女房三十六歌仙」
 が元祖(仮)の影響を受けてできたからです!


 さて、三十六歌仙にどんな歌人がいるか? は次回に。 ざっくりです☆
 中編
 



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