謎の美女小野小町”の『古今和歌集』収録「夢の歌6首のうち、
 前編に引き続き、後半3首について記します。


 恋の進行にほぼ従って編纂されている『古今集』恋の部の、
 こちらは「恋歌三に収載されています。

 想う人との逢瀬を果たした後にまで、恋は進行しています。

  うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目をよくと見るがわびしさ (656)
  かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ (657)
  夢路には足もやすめず通へどもうつつに一目見しごとはあらず (658)

 ――現実にはそれも仕方ないでしょうけど、夢の中でさえ、
  人目を避けて逢えないというのは、なんとも寂しいことですわ。

 ――尽きることのない恋の想いにまかせて、うたた寝の昼間だけでなく
  夜の夢にも私から来ましょう。夢の通い路まで人は咎めはしないでしょうから。

 ――夢の中の通い路では足も休めず毎夜あなたの許へ通うけれど、
  現実に一目逢ったあの夜とは比べものにならないわ。


 ふつう夢の中では人目を気にする必要はない。けれど夢にも逢うことがままならないのは、
 相手にその気がないからなのか、それとも自分の想いが足りないのかも
 夢を見ることを自分の意志に結び付ける小町(前編参照)ですから、
 自分の想いに自信がなくなっているのかもしれません。それが「わびし」いと言う。

 ちなみにこの最初の歌、私は「人目をもる」(もる=まもる→警戒する)で覚えていました。
 確かに「もる」となっている伝本も多いそうです。


 対して2首目は、いや、みずから逢いに行くんだ、という恋の決意を歌っています。

 3首目では、そうして夢の中を愛しい人の許へ通い続ける小町。
 そもそも女性側から男性の許へ歩いて通う、というシチュエーションは通常考え難く、
 夢ならではの仮託現象ではないでしょうか。
 しかし、やっぱりいくら逢瀬を重ねても、所詮は夢――苦しい恋の想いなのです。

 忍ぶ恋というのは格好の歌の題材ではあり、
 この恋自体が小町の創作や想像かもしれませんが……もし本当だったとして、
 こんなにままならぬ恋、いったいお相手はだれなのでしょうね。



 ところで、後半2首に出てくる「夢路」という言葉。
 現代ではメジャーな言葉ですが、小町の造語かもしれないそうです。
 小町以外に『古今集』で「夢路」を使用した歌が3首あるそうですが、
 すべて小町の夢の歌よりも後の成立と推測されるとか(大塚英子『小野小町』)


 [参考文献]
 高田祐彦訳注『新版 古今和歌集』角川学芸出版、2009年
 大塚英子『コレクション日本歌人選003 小野小町』笠間書院、2011年



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