貞観5年(863)5月20日、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)
 観察使(藤原仲成か)、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六柱を祀る御霊会(ごりょうえ)が、
 京都神泉苑で行われました。
 正史『三代実録』に残るこの記事が、「御霊会」の文献上の初見です。

 この「御霊信仰」とは、非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、これを慰和して
 その祟りを免れ安穏を得ようとする(都合のいい)信仰で、平安時代以後さかんになり、
 御霊の主体には特定の個人(主に政治的失脚者)があてられるようになりました。

 当然ながら貞観の御霊会では、この時点までの政争の犠牲者が対象です。
 このあと政争に敗れた有名人・伴善男や菅原道真は入っていません。
 彼らに比べれば、「文屋宮田麻呂」なんて誰よ?(ごめんね)という感じですが



 御霊神社と名の付く神社は全国に多くありますが、なかでも貞観の御霊会に
 関係深い神社としては、以下が代表的でしょう。

 ・御霊神社(上御霊神社)…京都市上京区
 ・下御霊神社…京都市中京区
 ・御霊神社…奈良市

 ことに京都の両御霊神社は、祭神のほとんどが貞観の御霊会と一致します。

 ▶上御霊神社…早良親王、井上皇后、他戸親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、
   「火雷神」、「吉備大臣」

 ▶下御霊神社…「吉備聖霊」、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、
   文屋宮田麻呂、「火雷天神」

 上御霊神社は観察使・伊予親王がなく代わりに井上皇后・他戸親王が、
 下御霊神社は観察使の代わりに藤原広嗣が加わっています。
 それに両社とも「吉備大臣(天神)」「火雷(天)神」が入っています。

 奈良市の御霊神社と、同じ奈良県の五條市霊安寺町にある御霊神社やその分祀は、
 井上皇后・他戸親王母子に縁が深いため、この二柱を中心とするようです。



 はじめに挙げた三神社の詳細は後日個別にレポートするとして、
 これら祀られるに至った人々の履歴をごく簡単に列挙してみましょう。

 ・井上皇后は、桓武天皇の父・光仁天皇の皇后(桓武の生母ではない)で
 当時山部親王といったのちの桓武が皇太子につくために蹴落とされた人物。
 ・このとき蹴落とされた皇太子が、井上皇后所生の他戸親王
 ・早良親王は桓武天皇の同母弟。桓武天皇が実子の安殿親王(のちの平城天皇)を
 皇太子にするため、皇太弟であった早良を陥れた(崇道天皇の尊号を追贈)。
 ・平城天皇に蹴落とされた異母弟が伊予親王、生母の藤原吉子
 ・仁明天皇の時代に謀反の疑いで断罪された橘逸勢(承和の変)、
 文屋宮田麻呂も次いで謀反の疑いをかけられる。

 みな罪を着せられ殺された(推測も含む)り自殺したり、無念の死を遂げました。
 のちに彼らの無罪は認められています。

 ・藤原広嗣は奈良時代にさかのぼった聖武天皇の時代、九州で反乱を起こした人物。
 ・観察使は嵯峨天皇の時代に薬子の変を起こした藤原仲成かといわれる。

 異質なのはこの二者で、殺された後も無実の罪とはなっていない“罪人”です。

 しかし広嗣は貞観の御霊会には入っておらず、「観察使」は本当に仲成なのか不明。
 正体が誰にせよ「観察使」はこのあとの御霊神社の祭神からは抜け落ちています。
 また広嗣の罪は明らかですが、すでに奈良時代の段階で、九州唐津の鏡神社に
 その祟りを鎮めるために追祀されています(奈良にも分祀されている)。
 広嗣の狙いが天皇でなく側近の吉備真備や玄昉であった、というのも理由でしょうか。


 次に、名を明かさないながら京都の上下御霊神社の祭神となっている、
 吉備大臣天神)」「火雷についてです。

 京都の御霊神社の創建・由来は明白ではなく、上御霊神社が延暦13年(794)
 の平安遷都のさいに崇道天皇(早良親王)を祀ったことを発祥とし、
 下御霊神社は貞観の御霊会よりやや後のはじまりかとされています。
 (※神社公式サイトより。下御霊神社に対し、御霊神社を上御霊神社と称す)

 上御霊神社はもちろんのこと、下御霊神社に関しても、祭神は徐々に付け加えられた
 ものかもしれません。
 なぜなら、「火雷神」は時代の下る菅原道真と人々に思われているからです。
 ただし両神社では特定の人物はあてず六柱の「荒魂」と解釈されています。

 「火雷神」については荒魂にせよ菅原道真にせよ納得がいくのです。
 (この名がある限り、雷に関連する菅原道真が原形としてあると私は思います)
 しかし「吉備大臣」(上御霊神社)「吉備聖霊」(下御霊神社)とは?

 下御霊神社では六柱の「和魂」と解釈、ところが上御霊神社では、
 良時代の右大臣・吉備真備をあてています。
 たしかに、和魂とするには「吉備」の名は具体的すぎると感じます。

 かといって真備……ピンと来ない。あれ? 真備って、政変に敗れたりしたっけ……
 たしかに晩年の光仁天皇の担ぎ出しは彼の本意ではなかったともいいますが、
 むしろ総合的に地方豪族あがりの学者として正二位右大臣は破格の出世でしょう。
 陰陽道をよくしたともいわれる真備は、怨霊封じ込めの願いをこめてここに祀られた
 とも考えられています。

 ……しかし本当にそうなのか?
 下御霊神社に残る「聖霊」の語……奈良時代の「吉備内親王」のほうを連想させます。
 長屋王(天武天皇孫)の妃にして、天武の正統な跡取り・草壁皇子と元明天皇の娘、
 文武天皇と元正女帝をきょうだいにもつ、もっとも高貴な内親王。
 神亀6年(729=天平元年)、長屋王の変で藤原氏により自殺へと追い込まれます。
 そして、これは確実に吉備内親王ではないか、と、永井路子さんが仰っていました!
    [永井路子「吉備聖霊 忘れられた系譜」『悪霊列伝』]
 なら間違いないかも と、ますます確信しております

   一つのロイヤルファミリーが絶滅し、新しく彼ら藤原氏に権力が移ったことに
   目をとめれば、むしろこの天平元年こそ、時代の分れ目なのである。
   [上記新装版、角川書店、34頁]



 次回以降は、京都の上下御霊神社および奈良市の御霊神社のレポートです☆

  7/15 京都御霊神社(上下御霊神社)



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