2015/07/29
粟田真人
あわたのまひと。?-719.2。奈良時代の公卿。
天武10年(681)小錦下。のち筑紫大宰をへて大宝律令の編纂に参画。
大宝元年(701)に遣唐使の執節使を拝命し、翌年入唐を果たした。
唐での真人は、時の女帝・則天武后にも気に入られ、特別に宴に呼ばれ、
「司膳卿」(従五品上相当か)に任じられたといいます。
『旧唐書』「倭国日本伝」に記されている出来事ですが、同史料は真人を
以下のように表現しています。
好んで経史を読み、文を属するを解し、容止温雅なり。
※属文(しょくぶん)…作詩・作文、容止…風貌・挙措、温雅…上品でおだやか
このときの遣唐使は約30年ぶりで、『大宝律令』が成立したタイミングです。
いままでの「蛮国」とは異なる「法治国家」であるということを大国・唐に示す、
国威発揚の大事な使命を帯びた国事だったのです。
慶雲元年(704)の帰朝後は中納言となり、最終的に正三位にまで昇ります。
藤原不比等が歿する前年の養老3年(719)に亡くなりますが、
豊富な律令の知識といい、貴重な渡唐経験といい、
不比等の政治を支え続けた存在だったのではないでしょうか。
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