◆藤原氏系図・2◆不比等編 第一回
藤原氏系図をランダムに作成しています。
系図に登場する人物や系図の背景なども、ご紹介していきます。
☆このシリーズの系図について☆ 頁の一番下をご覧ください
第一回 不比等とその息子たち
藤原不比等(ふひと、659-720.8.3)といえば、奈良時代初期の太政官首班。
正二位右大臣、贈太政大臣正一位。淡海公。中臣(藤原)鎌足の次男として生まれ、
のちに藤原姓の独占使用を認められる。藤原氏の実質的な祖。
大宝律令、養老律令撰定を主導。平城遷都の主唱者と目される。
その男子は4人で、聖武天皇の時代、一時期政界をリードすることになり
藤原四子(または四兄弟)と呼ばれ、四家に分立していきます。
❖武智麻呂(むちまろ、680.4~737.7.25)南家の祖。贈太政大臣。
右大臣。死没直前に正一位左大臣。母は蘇我連子(石川麻呂の弟)女・娼子。
❖房前(ふささき、681~737.4.17)摂関家へ続く北家の祖。贈正一位太政大臣。
正三位参議民部卿。母は兄と同じ。元明太上天皇の危篤に際し内臣。
❖宇合(うまかい、694~737.8.5)式家の祖。
馬養とも。従三位参議式部卿。霊亀年間の遣唐副使。
※母は娼子ともされるが、娼子は武智麻呂が幼いころ亡くなったという
記録があり(家伝)、不明。
❖麻呂(まろ、695~737.7.13)京家の祖。
従三位参議兵部卿。京職大夫を長くつとめる。母は叔母の藤原五百重娘。
長屋王を倒し、妹の光明子を臣下の娘としては異例の皇后とした彼らでしたが、
それから10年も経たない天平9年(737)、中央政府の要人にまで及ぶ天然痘の
大流行により次々と命を落としていき、その時代は唐突に終わりを告げました。
最後に武智麻呂と房前の関係について、少し触れておきましょう。
不比等の存命中、兄に先んじて参議となった次男・房前は、父・不比等から兄を差し措き
後継者として認められていた、といわれることが多いと思います。
ところが、大臣・納言・参議からなる当時の議政官は、大化以前の伝統により一氏一人ずつの
合議体の性格を残し、さすがの不比等も、それを破ることは難しかったのではないか。
つまり、不比等の存命中に弟の房前だけが参議となったのは、不比等の後継者ではない、
別の家と見なされた、ということです(実は「藤原氏」であることに変わりはないのですが)。
現に不比等の死後、長兄の武智麻呂は参議房前を飛び越して中納言になっています。
のちに弟の宇合と麻呂までが首班入りするのも、これが別の家と捉えられたからである――
という、房前後継者説への反論もあります。
ただ、不比等の死後も、木簡の表記から「太政大臣家」(=不比等家)は存続したことが見え、
武智麻呂(またはその後継者)ではなく光明皇后が代表していたように見受けられたり、
橘諸兄と子の奈良麻呂、南家からも豊成・仲麻呂兄弟などが同時に議政官入りしていたり、
このあと一氏から複数人の参議以上就任のパターンがみられるようになります。
これらを鑑みると、実力者であった不比等は、藤原氏複数の同時政界入りという先例を、
ひとまず“別家”という体裁(建前)で作り、息子たちの道を開いたのではないでしょうか。
[参考文献]
木本好信『藤原四子 国家を鎮安す』ミネルヴァ書房、2013年
渡辺晃弘『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』講談社、2001年
高島正人『人物叢書 藤原不比等』吉川弘文館、1997年
第2回は女子編
☆ ☆ ☆
☆このシリーズの系図について☆
参考文献は以下のとおり。
作成方法など詳細は、「作成につき」の頁をご覧ください。
・『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男監修、講談社、2003年) ・『国史大辞典』(吉川弘文館)ほか日本史辞典類
・史料『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』『群書類従 系譜部』『続群書類従 系図部』『公卿補任』、六国史
・適宜、先行研究書籍
系図内のきょうだい出生順は原則として左を年上としていますが、
作図の都合や事実不明などによりすべてとは限りません。
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第一回 不比等とその息子たち
藤原不比等(ふひと、659-720.8.3)といえば、奈良時代初期の太政官首班。
正二位右大臣、贈太政大臣正一位。淡海公。中臣(藤原)鎌足の次男として生まれ、
のちに藤原姓の独占使用を認められる。藤原氏の実質的な祖。
大宝律令、養老律令撰定を主導。平城遷都の主唱者と目される。
その男子は4人で、聖武天皇の時代、一時期政界をリードすることになり
藤原四子(または四兄弟)と呼ばれ、四家に分立していきます。
❖武智麻呂(むちまろ、680.4~737.7.25)南家の祖。贈太政大臣。
右大臣。死没直前に正一位左大臣。母は蘇我連子(石川麻呂の弟)女・娼子。
❖房前(ふささき、681~737.4.17)摂関家へ続く北家の祖。贈正一位太政大臣。
正三位参議民部卿。母は兄と同じ。元明太上天皇の危篤に際し内臣。
❖宇合(うまかい、694~737.8.5)式家の祖。
馬養とも。従三位参議式部卿。霊亀年間の遣唐副使。
※母は娼子ともされるが、娼子は武智麻呂が幼いころ亡くなったという
記録があり(家伝)、不明。
❖麻呂(まろ、695~737.7.13)京家の祖。
従三位参議兵部卿。京職大夫を長くつとめる。母は叔母の藤原五百重娘。
長屋王を倒し、妹の光明子を臣下の娘としては異例の皇后とした彼らでしたが、
それから10年も経たない天平9年(737)、中央政府の要人にまで及ぶ天然痘の
大流行により次々と命を落としていき、その時代は唐突に終わりを告げました。
最後に武智麻呂と房前の関係について、少し触れておきましょう。
不比等の存命中、兄に先んじて参議となった次男・房前は、父・不比等から兄を差し措き
後継者として認められていた、といわれることが多いと思います。
ところが、大臣・納言・参議からなる当時の議政官は、大化以前の伝統により一氏一人ずつの
合議体の性格を残し、さすがの不比等も、それを破ることは難しかったのではないか。
つまり、不比等の存命中に弟の房前だけが参議となったのは、不比等の後継者ではない、
別の家と見なされた、ということです(実は「藤原氏」であることに変わりはないのですが)。
現に不比等の死後、長兄の武智麻呂は参議房前を飛び越して中納言になっています。
のちに弟の宇合と麻呂までが首班入りするのも、これが別の家と捉えられたからである――
という、房前後継者説への反論もあります。
ただ、不比等の死後も、木簡の表記から「太政大臣家」(=不比等家)は存続したことが見え、
武智麻呂(またはその後継者)ではなく光明皇后が代表していたように見受けられたり、
橘諸兄と子の奈良麻呂、南家からも豊成・仲麻呂兄弟などが同時に議政官入りしていたり、
このあと一氏から複数人の参議以上就任のパターンがみられるようになります。
これらを鑑みると、実力者であった不比等は、藤原氏複数の同時政界入りという先例を、
ひとまず“別家”という体裁(建前)で作り、息子たちの道を開いたのではないでしょうか。
[参考文献]
木本好信『藤原四子 国家を鎮安す』ミネルヴァ書房、2013年
渡辺晃弘『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』講談社、2001年
高島正人『人物叢書 藤原不比等』吉川弘文館、1997年
第2回は女子編
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参考文献は以下のとおり。
作成方法など詳細は、「作成につき」の頁をご覧ください。
・『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男監修、講談社、2003年) ・『国史大辞典』(吉川弘文館)ほか日本史辞典類
・史料『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』『群書類従 系譜部』『続群書類従 系図部』『公卿補任』、六国史
・適宜、先行研究書籍
系図内のきょうだい出生順は原則として左を年上としていますが、
作図の都合や事実不明などによりすべてとは限りません。
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