◆藤原氏系図・2◆不比等編 第二回
藤原氏系図をランダムに作成しています。
系図に登場する人物や系図の背景なども、ご紹介していきます。
☆このシリーズの系図について☆ 頁の一番下をご覧ください
第二回 不比等の娘たち
藤原不比等(ふひと、659-720.8.3)といえば、奈良時代初期の太政官首班。
贈太政大臣正一位。淡海公。中臣(藤原)鎌足の次男として生まれ、
のちに藤原姓の独占使用を認められる。藤原氏の実質的な祖。
大宝律令、養老律令撰定を主導。平城遷都の主唱者と目される。
彼の女子は5人わかっており、彼女たちが父の政権安定のために果たした
役割は計り知れません。
❖長女:宮子 みやこ ?-754.7.19
武智麻呂と房前の母・蘇我娼子が房前を生んで(681年)ほどなく亡くなった後、
賀茂小黒麻呂女(賀茂比売)と結ばれて生まれた長女と思われます。
『尊卑分脈』賀茂比売欄には「聖武皇帝外祖母」とあります。
701年、文武天皇(683生)とのあいだに首皇子(聖武天皇)を儲けます。
身分は「夫人(大夫人)」ですが、天皇の生母となった藤原氏初の女性です。
❖次女:長娥子 ながこ
宮子と同母か。長屋王(684もしくは676生?)の室であったと推測されます。
『続日本紀』724年2月6日条に、長屋王一族の女性ら(妻・娘・姉妹)とともに
「藤原朝臣長娥子」が従三位に叙されています。
同763年10月17日の長屋王遺児の藤原弟貞(山背王)薨去記事に、729年の
長屋王の変の際、「藤原太政大臣之女所生」であるため、同母きょうだいの名を挙げ
(安宿王・黄文王・女子の教勝)、彼らとともに助命されたとあります。
❖三女:光明子(安宿媛)こうみょうし 701-760.6.7
有名な聖武天皇の皇后・光明子。長屋王の変を経て、臣下の娘にして異例の立后。
臨書「楽毅論」の末尾に「藤三娘」と自著している【写真つき記事】、不比等の三女。
母は天武朝から元正朝までつとめあげた高級女官の県犬養橘三千代。
光明子には、藤原四子という異母兄らに加え異父兄に橘諸兄らがいることになります。
同年生まれの夫は長姉の子(甥)。息子は夭折、娘が孝謙天皇となりました。
❖四女:多比能(吉日)たひの
橘諸兄(684生)に嫁し橘奈良麻呂を生みました。不比等にとって公私ともに伴侶といえる
存在となった県犬養橘三千代(橘は元明天皇より賜姓)との結束を固める結婚でしょう。
奈良麻呂はのちに南家仲麻呂に抗し政変を起こしますが、母方の祖父は不比等であった
ことになります。『尊卑分脈』奈良麻呂欄に「母淡海公女」。
角田文衞氏によると、高級女官として名の残る「吉日」と同一人物とされています。
生母は橘三千代ともいいますが、三千代所生の諸兄と結婚していることから疑わしい。
❖五女:女子(名不明。角田文衞氏説「殿刀自」)
名前・生母ともに不明の、大伴古慈斐(695生)に嫁いだ娘がいます。
『続日本紀』777年8月19日の古慈斐薨去記事に、その才を見込んだ不比等が
娘婿とした旨が記されています。不比等が皇族・王族とみずからの一族のほか、
旧来の氏族にも配慮して娘たちを配していたことがわかります。
[参考文献]
木本好信『藤原四子 国家を鎮安す』ミネルヴァ書房、2013年
渡辺晃弘『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』講談社、2001年
高島正人『人物叢書 藤原不比等』吉川弘文館、1997年
伊集院葉子『古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退』吉川弘文館、2014年
第一回は不比等と男子編
☆ ☆ ☆
☆このシリーズの系図について☆
参考文献は以下のとおり。
作成方法など詳細は、「作成につき」の頁をご覧ください。
・『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男監修、講談社、2003年) ・『国史大辞典』(吉川弘文館)ほか日本史辞典類
・史料『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』『群書類従 系譜部』『続群書類従 系図部』『公卿補任』、六国史
・適宜、先行研究書籍
系図内のきょうだい出生順は原則として左を年上としていますが、
作図の都合や事実不明などによりすべてとは限りません。
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第二回 不比等の娘たち
藤原不比等(ふひと、659-720.8.3)といえば、奈良時代初期の太政官首班。
贈太政大臣正一位。淡海公。中臣(藤原)鎌足の次男として生まれ、
のちに藤原姓の独占使用を認められる。藤原氏の実質的な祖。
大宝律令、養老律令撰定を主導。平城遷都の主唱者と目される。
彼の女子は5人わかっており、彼女たちが父の政権安定のために果たした
役割は計り知れません。
❖長女:宮子 みやこ ?-754.7.19
武智麻呂と房前の母・蘇我娼子が房前を生んで(681年)ほどなく亡くなった後、
賀茂小黒麻呂女(賀茂比売)と結ばれて生まれた長女と思われます。
『尊卑分脈』賀茂比売欄には「聖武皇帝外祖母」とあります。
701年、文武天皇(683生)とのあいだに首皇子(聖武天皇)を儲けます。
身分は「夫人(大夫人)」ですが、天皇の生母となった藤原氏初の女性です。
❖次女:長娥子 ながこ
宮子と同母か。長屋王(684もしくは676生?)の室であったと推測されます。
『続日本紀』724年2月6日条に、長屋王一族の女性ら(妻・娘・姉妹)とともに
「藤原朝臣長娥子」が従三位に叙されています。
同763年10月17日の長屋王遺児の藤原弟貞(山背王)薨去記事に、729年の
長屋王の変の際、「藤原太政大臣之女所生」であるため、同母きょうだいの名を挙げ
(安宿王・黄文王・女子の教勝)、彼らとともに助命されたとあります。
❖三女:光明子(安宿媛)こうみょうし 701-760.6.7
有名な聖武天皇の皇后・光明子。長屋王の変を経て、臣下の娘にして異例の立后。
臨書「楽毅論」の末尾に「藤三娘」と自著している【写真つき記事】、不比等の三女。
母は天武朝から元正朝までつとめあげた高級女官の県犬養橘三千代。
光明子には、藤原四子という異母兄らに加え異父兄に橘諸兄らがいることになります。
同年生まれの夫は長姉の子(甥)。息子は夭折、娘が孝謙天皇となりました。
❖四女:多比能(吉日)たひの
橘諸兄(684生)に嫁し橘奈良麻呂を生みました。不比等にとって公私ともに伴侶といえる
存在となった県犬養橘三千代(橘は元明天皇より賜姓)との結束を固める結婚でしょう。
奈良麻呂はのちに南家仲麻呂に抗し政変を起こしますが、母方の祖父は不比等であった
ことになります。『尊卑分脈』奈良麻呂欄に「母淡海公女」。
角田文衞氏によると、高級女官として名の残る「吉日」と同一人物とされています。
生母は橘三千代ともいいますが、三千代所生の諸兄と結婚していることから疑わしい。
❖五女:女子(名不明。角田文衞氏説「殿刀自」)
名前・生母ともに不明の、大伴古慈斐(695生)に嫁いだ娘がいます。
『続日本紀』777年8月19日の古慈斐薨去記事に、その才を見込んだ不比等が
娘婿とした旨が記されています。不比等が皇族・王族とみずからの一族のほか、
旧来の氏族にも配慮して娘たちを配していたことがわかります。
[参考文献]
木本好信『藤原四子 国家を鎮安す』ミネルヴァ書房、2013年
渡辺晃弘『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』講談社、2001年
高島正人『人物叢書 藤原不比等』吉川弘文館、1997年
伊集院葉子『古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退』吉川弘文館、2014年
第一回は不比等と男子編
☆ ☆ ☆
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参考文献は以下のとおり。
作成方法など詳細は、「作成につき」の頁をご覧ください。
・『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男監修、講談社、2003年) ・『国史大辞典』(吉川弘文館)ほか日本史辞典類
・史料『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』『群書類従 系譜部』『続群書類従 系図部』『公卿補任』、六国史
・適宜、先行研究書籍
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