◆史跡案内◆京都

 京都東山地区、現在、清水寺などの観光スポットが集まりにぎわう
 場所ですが、かつてこの一帯は鳥辺野と呼ばれる葬送の地でした。

 その入口にあたるのが六波羅地区で、平清盛らが京における
 拠点とした場所です。ふつうの貴族なら敬遠した土地だったわけです。


 京都を訪れたとき、六波羅蜜寺から清水方面へ向かう途中……
 目的にしていたわけではないのですが、偶然行き当たりました。

 六道珍皇寺
 小野篁卿旧跡」「六道の辻 六道珍皇寺の入口

 上に述べたような土地柄ゆえ、ここは“この世とあの世の境”の辻――
 冥界の入口である「六道の辻」と信じられていました。
 (六道とは仏教にいう、地獄道から天道までの六種類の世界)

 なぜ「小野篁卿旧跡」なのかというと、篁が夜ごとこの本堂裏庭にある井戸から
 冥府へ通ったという伝説があるからです。冥府の役人であったといわれていたのが
 『江談抄』などに見え、平安時代末期には伝説化がはじまっていたようです。

 この井戸ももちろん見られますし(←入れません)、また閻魔大王と篁の像が並ぶ
 閻魔堂を覗くことができます! いま「覗く」と書いたのは、本当に穴から覗くんです
 冥土へつづく場所にふさわしい、秘密めいたスタイル……



 ところで、小野篁という人は、なんでこんな冥府伝説ができてしまったのでしょうね。
 まだそのあたりはよく調べて(考えて)いません。

 とりあえず、ざっくり史実の小野篁について記しておきます。

 小野 篁(おののたかむら)☆ 802-853
 平安初期の官人、漢詩人・歌人。小野岑守の長男。
 別名・野宰相、野狂とも。ちなみに小野の野であってワイルドの意ではない。
 順調に昇進、人物・学識・文才いずれも世に傑出したが、
 承和5年(838)、遣唐副使であったが正使の横暴に憤り、病と称して乗船せず、
 遣唐使を風刺する詩を作った。嵯峨上皇の激怒により隠岐国に配流となった。
 このときの歌が小倉百人一首に採られた
  わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまの釣り船
 二年後、京に召還され、のちにまた順調に昇進し、最終的に参議従三位。






゚・:,。゚・:,。★ ↓↓↓ 古代史推進のために! クリックしていただけるととても嬉しいです゚・:,。゚・:,。☆
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

日本史 ブログランキングへ