平安朝のはじめごろ、嵯峨天皇(在位809-823)の内親王に、
 有智子(うちこ)という名の女性がいました(807-847)。

 彼女は女性ながらに漢詩の上手として名を馳せました。
 文人天皇・嵯峨の娘としてふさわしい気高さと才を持ち合わせたそうです。


 有智子内親王については、以前にその生涯とお墓レポを載せています。
  有智子内親王のこと さらに記事内冒頭のリンクから、『続日本後紀』に
      掲載された、内親王のもっとも有名な漢詩を読むこともできます。

 * * *

 『雑言奉和』より (長いので、3つに分けます。)

 奉和製江上落花詞  無品妾有智子

 江上落花詩書1

 本(もと)より空しく伝ふ武陵の渓(たに)/地体幽深にして来る者迷ふ
 今見る河陽一県の花/花落つること紛紛煙霞に接(つ)
 孤嶼芳菲にして薄晩に暉(ひか)り/夾岸(きょうがん)飄颻(ひょうよう)として後前に飛ぶ


 江上落花詩書2

 江村を歴覧するに花猶故(ふ)り/民社を経過するに人復(ま)た稀なり
 落花に対(むか)ふ/落花猶歇(や)まず
 桃花李花一段発(ひら)く/儵忽(しゅくこつ)にして風を帯びて左右に渡る
 須臾にして攀折(はんせつ)して日将(まさ)に暮れなんとす/歴乱たる香風吹きて止まず


 江上落花詩書3

 湖裏の彩浪無数に起こる/落花を看る
 落花雪と作(な)りて空裡に満つ/空裡に飛び散りて江水に投ず
 憐れむべし漁翁花中に廻り/憐れむべし水鳥蘆裡(ろり)に哀しむ
 唯だ釣船の鏡中を度(わた)る有り/還りて疑ふらくは査客(さかく)天より来れるかと


 昔からお話としてのみ伝えられる武陵桃源の渓(=桃源郷)は、
 奥深くひっそりとした地にあり来る者は迷うといいます
 今、目の前に見る河陽一帯の桜花は、一面に散り乱れ煙か霞かと迷ってしまう
 川中の小島は花が咲き匂い夕暮れの中に輝き、
 両岸の落花は風に舞い翻り後ろへ前へ飛んでいます
 水辺の村を見まわると遅い花はなお残り 村の社を通り過ぎても人ひとりいない
 そこで落花に向かう 落花はなおやまない
 桃花李花が一群をなして咲いていて、たちまち風を受けると左右になびく
 しばらくと花を手折って遊ぶうち日はもう暮れてしまいそう
 咲き乱れた花の香をはこぶ風がやむことなく吹き、水面に彩られた波が無数に立つ
 落花を眺める 落花は雪となって空一面に舞い、飛び散って水面に落ちる
 なんと憐れ深いことか、老漁夫は花にかこまれた中を回り
 なんと愛おしいことか、水鳥は蘆の茂みで哀し気に鳴きます
 たったひとつ、釣船が鏡のように澄んだ川面を渡るのが見えます
 ふと疑ってしまったわ
 あれは査(いかだ)に乗って遠く使したという張騫が、天から帰ってきたのかしらと
 
 * * *
 

 作者名が「無品妾」(注:メカケではない。女性の謙遜を込めた一人称)とあることなどから、
 有智子内親王最初期の作とされています。
 前回に見た、父嵯峨天皇から「三品」を賜ったきっかけとなった漢詩が
 17歳の作ですから、それ以下の女の子の作ということになります!

 嵯峨天皇の「江上落花詞」に唱和した詩ですが、天皇のこの方面への行幸は、
 その時期、弘仁10年(819)、11年が知られるそうです。
 とすると、有智子内親王13、4歳の作となるとのこと……


 河陽の地は、現在の京都山崎の地にあたり、嵯峨天皇の離宮が置かれました。
 淀川に接し風光明媚な土地で、嵯峨天皇らの漢詩によく詠まれました。

 大河と花吹雪の河陽の夕暮れを詠んだ漢詩で、美しい景色が目に浮かびます。
 漢詩は同じ文字を使わないものかと思っていたのですが、繰り返しがとても効果的。
 (厳密なルールに成り立つ近体詩とはちがう形です)
 冒頭には陶淵明の桃源郷、末尾には漢の匈奴への外交使・張騫(ちょうけん)の故事を引き、
 景色の描写だけに終わらない才と詩のスケールの大きさをしめしています。


 [参考文献]
  岩佐美代子『内親王ものがたり』岩波書店、2003年
 『日本女流文学史』同文書院、1969年



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