◆小倉百人一首 歌・解釈・歌人・書道作品◆第6回
   26~30番(藤原忠平・藤原兼輔・源宗于・凡河内躬恒・壬生忠岑)

  * * *
 藤原定家が小倉山荘で撰んだという「小倉百人一首」。

 かるたとして、歌の基本学習として、かな書道入門として、
 さまざまに親しまれています。

 飛鳥時代の天智天皇からはじまり鎌倉時代の順徳院まで、
 「百人一首」がほぼ時代順に並びます。

 天智天皇から5首ずつ、全20回で歌・解釈・歌人について、
 を書道作品入りでまとめました。
  (一番下にある各首の冒頭の番号をクリックしてください。
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 ◆第6回:26~30番

 今回は、『古今和歌集』の成立事情について少し。
 今回の26~30番と次回の31~35番に、古今集の編者が入っています。
 29番・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、30番・壬生忠岑(みぶのただみね)、
 33番・友則(きのとものり)、35番・紀貫之(きのつらゆき)です。

 古今和歌集は初の勅撰(天皇の命により作られた)和歌集で、
 成立は延喜5年(905)とされますが、実際はもう少し後になるとも。
 宇多天皇の子、醍醐天皇の時代です。

 それまで勅撰集といえば漢詩でしたが、ここで和歌も貴族の嗜みとして
 正式に認知されたといってよいでしょう。


 ですが、醍醐天皇により命じられた和歌集には、風雅のためだけではない
 意味合いもこめられていたかもしれません。

 紀貫之らが古今集を編纂した当代に生きていた歌人たちの入集状況を
 みてみますと、(当然のことながら)宇多天皇および醍醐天皇の
 血縁者や近臣らが多いそうです。

 宇多天皇の父・光孝天皇は、仁明天皇の皇子でしたが、それまでの
 仁明―文徳―清和―陽成の直系とは異なる血統から出た天皇でした。
 新しい皇統の、新しい権威づけ・正統化の意味合いがあるのでは――。


 なお、古今集の入集数は六歌仙の三人(在原業平・小野小町・僧正遍昭)も
 多いのですが、トップは当代の紀貫之102首2位は凡河内躬恒60首、
 3位は紀友則46首、4位は壬生忠岑36首、と撰者が圧倒的に占めています。
 彼らのパトロンとして有名なのが、25番の藤原定方、そして今回27番の
 藤原兼輔(紫式部の曽祖父、「堤中納言」の名で知られる)です。
 そして彼らもそれぞれ1首、4首と入集しています。
 なお、定方は醍醐天皇の母の兄弟で右大臣にいたり、兼輔は定方の娘を
 妻とし親密な関係にあり、娘が醍醐天皇に入内して親王を生んでいます。

 入集は当代の王権からの認知を示しますから、それは名誉とともに、
 上位貴族の場合とくに政治的な意味合いがこめられているわけです。

 また、5位(37首)の21番・素性法師は宇多天皇に見いだされて厚遇された
 ことが知られますし、7位(22首)の19番・伊勢は宇多天皇の女御に仕え、
 同時に天皇の愛人でその時代を彩った女流歌人でした。


 [参考文献]
 川尻秋生『平安京遷都』岩波書店、2011年
 高田祐彦訳注『新版 古今和歌集』角川学芸出版、平成21年





 26番 小倉山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
  貞信公

 27番 みかの原 わきて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ

  中納言兼輔

 28番 山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
  源宗于朝臣

 29番 心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる 白菊の花
  凡河内躬恒

 30番 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
  壬生忠岑


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