貞元2年(977)10月11日、藤原頼忠(よりただ)が関白となりました。

 死を目前にした藤原兼通(かねみち)から譲られたかっこうです。

 頼忠簡易版
 ※関係者系図 ※男子の兄弟順は、右が年上

 『大鏡』などには、頼忠の関白就任に関して、兼通とすぐ下の弟・藤原兼家(かねいえ)
 あいだの確執をめぐる、有名な逸話があります。

  * * *
 兼通・兼家兄弟はずっと仲が悪かった。
 兼通の病気が重くなり危篤状態になったとき、兼家の一行が邸に近づいてきた。
 「さすがに危篤ともきけば、ずっと不仲であった弟だが、見舞いに来てくれるのだろう」
 そう思った兼通は、身辺をきれいにし、弟を待っていた。
 ところが、兼家は邸を素通りし、内裏へ参内したのであった!
 つまり、兄関白・兼通危篤の今を幸いに、天皇から次の関白にしてもらおうと、
 頼みに行った
ということである!
 (兼家、マジ、許さん!
 怒りに燃える兼通は、重篤の身に鞭打ち、急ぎ支度。
 子息たちの肩にもたれて、内裏へと向かった!
 驚く兼家を後目に、「最後の除目(じもく=人事)を行いに、参上いたしました」……
 
  * * * 『大鏡』太政大臣兼通 より

 そういうわけで、兼家はしりぞけられ、頼忠が関白となった、というおはなしです。

 このとき兼通がブチギレて発作的にいとこの頼忠に関白を譲った、というのは
 いかにも面白い物語ですが、現実には、兼通と頼忠のあいだでは、この人事は
 既定事項であったのではないでしょうか。

 太政大臣兼関白であった兼通のすぐ下は、左大臣源兼明(醍醐天皇皇子)でしたが、
 突然親王とされ政界から遠ざけられました。右大臣頼忠が左大臣に昇格したのです。
  (基本的には、このころは太政官のトップが関白をつとめるかたちでした)


 兼通と兼家は、やはりよほど折り合いが悪かったとしか思えません。
 
同母で4歳違いの兄弟は、冷泉朝のころから弟の兼家が頭角を現し、
 官職も弟のほうがすすんでいました。

 実は二人の長兄である関白藤原伊尹(これただ/これまさ)が、天禄3年(972)、
 50歳に満たず没したとき、兼通は権中納言であったのに対し、弟の兼家は大納言でした。
 上述の通り、左大臣源兼明、右大臣頼忠がいたものの、次の関白は伊尹の実弟である
 兼通・兼家兄弟の争いになりました。しかし、年上ではあるものの、官職は下の兼通。
 ずっと悔しい思いや焦りを抱いていたにちがいありません。

 兼通は、彼らの同母姉妹である、円融天皇の生母・藤原安子(故人)に、
  関白は兄弟順にせよ
 という手紙を生前したためさせ、そのときに備えていたのです
 (というおはなしが、やはり『大鏡』にあります)



 兼通にいさんの執念は、とにかく凄い、という印象です。
 兼家も兄より早くに出世して、娘や息子にめぐまれ(特に娘はよく天皇の子を生んだ)、
 とにかくやり手でしたが、この兄の一念にはかなわず、不遇の時期もあったのです。

 それに引き換え、このとき関白を譲られている頼忠は、円満で、兼通の関白就任時には
 官職が上で氏長者を受けたけれど、こちらものちに兼通に譲っています。
 (実際には伊尹の死後すぐに兼通が関白になったわけではなく、内大臣、太政大臣と
 すすんだあと、天延2年<974>のことと推測されている)
 兼家とも円満な関係を築きましたが、兼家と異なり、
 入内した娘たちが天皇の子を生むことはありませんでした。

 次の時代は、兼家のものとなっていくわけです。

 ちなみに、頼忠の嫡男が公任で、兼家のもっとも出世した男子が道長です!


 [参考文献]
 『新編 日本古典文学全集34 大鏡』小学館、1996年
 大津透『日本の歴史06 道長と宮廷社会』講談社、2001年



 
゚・:,。゚・:,。★ ↓↓↓ 古代史推進のために! クリックしていただけるととても嬉しいです゚・:,。゚・:,。☆
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

日本史 ブログランキングへ