突然ですが、本日、10月16日を、「藤原氏の日」と定めます!

 望月

 寛仁2年(1018)10月16日。

 藤原道長の栄華を象徴する、あの有名な歌が詠まれました。

   此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば

 すでに道長の長女彰子は一条天皇の、次女妍子は三条天皇の中宮に立ちました。
 そしてこの日、三女威子が後一条天皇の皇后(中宮)となったのです!
 立后の儀のあと、場所を移して道長の土御門邸で宴席が設けられました。
 そのとき、お酒も入ったであろう道長が即興で詠んだ歌だそうです。

 ちなみにこの年のこの日は、新暦ですと11月18日にあたります。

 土御門第
 ▲土御門邸 の立札

 このことは道長自身が記録したのではなく、当時の公卿・藤原実資の日記『小右記』に
 残されていたもので、彼はこう記しています。

   一家に三后が立つ、未だ曽(かつ)て有らず。

 月は満ちれば欠けるものなのですけれど……



 しかし、藤原氏にとって10月16日とは、それだけの日ではありません。

 道長一家だけではなく、実は、藤原氏全体に関する大事な日であったのです。

 この日は、藤原氏の始祖・鎌足の祥月命日なのです

 BlogPaint
 ▲大和和紀『天の果て地の限り』より

 鎌足の子・不比等に始まり、不比等の孫にあたる仲麻呂が再興した行事があります。
 維摩経を購読する法会=維摩会(ゆいまえ)です。
 10月10日から16日まで、興福寺にて開かれる慣行になっていました。

 この講師(こうじ)をつとめる僧侶はたいへん名誉で、エリートコースを約束されました。
 その任命権は藤原氏長者にあり、熾烈な争いだったそうです。
 さらに、法会には、原則として藤原氏は強制参加だったようなのですが……?

 なぜ、威子の立后の儀をこの日に当ててしまったのか、謎です。

 道長らは当然儀式に出席し、維摩会には出席していないはず。
 道長の日記『御堂関白記』によると、7月28日に日取りを決定する寄合をしています。
 道長の異母兄・大納言藤原道綱、後世「四納言」といわれた権大納言・藤原斉信
 同じく四納言・権大納言源俊賢などが出席しています。
 陰陽師に日取りを占わせた結果ですが、誰もそのことに思い至らなかった?
 わけない、ですよね……?

 たいへん謎の多い寛仁2年の10月16日なのでした。

 
 [参考文献]高橋崇『藤原氏物語 栄華の謎を解く』新人物往来社、1998年
 

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