◆藤原氏系図・3◆兼通編

 藤原氏系図をランダムに作成しています。
 系図に登場する人物や系図の背景なども、ご紹介していきます。
  ☆このシリーズの系図について☆ 頁の一番下をご覧ください

 兼通系図
 ※原則として男女別に右から出生順。順が不明のものもあり。省略された人物もあり。
 


 兼通編

 藤原兼通(かねみち、925-977.11.8)。平安時代中期の公卿。
 従一位関白太政大臣、贈正一位。

 藤原師輔(908-960、忠平次男)の次男。師輔は子女が多いため、
 上系図に載せたのは兼通の同母(藤原南家の盛子)きょうだいの一部。
  ※師輔編を作成するときにきちんと載せます。

 先日の記事「頼忠の関白就任と兼通・兼家兄弟の確執」で見たとおり、
 4歳下の同母弟兼家道長らの父)との熾烈な骨肉の争いで有名。
 詳細は同記事に譲るが、有能な弟に出世争いで先を越されていた兼通は、
 大逆転で先に内大臣となり、のちに太政大臣、そして関白となった。
 『大鏡』などの説話では、妹の安子(村上天皇中宮)の力によるとされているが、
 関白であった長兄・伊尹の遺命であるという(『親信卿記』、同時代の日記)。
 

 ❖兼通の男子

 長男は顕光(944-1021)。
 長く廟堂の上位を占め最終的に左大臣にまで昇るが、権力者・道長はじめ周りから
 無能者とされていた。実際、実務もおぼつかなく、朝廷の儀礼などで失態を繰り返した。
 道長からは、困ったものだが毒にはならないと思われていたのではないか。
 母は陽成天皇皇子・元平親王のむすめ、昭子女王。

 兼通にとって期待の男子は、四男(三男?)の朝光(951-995)であった。
 醍醐天皇皇子・有明親王のむすめ、能子女王の所生。
 もちろん長兄に先んじて、天延2年(974)24歳で参議に引き上げられている。
 長兄の顕光は天延3年(975)32歳でようやく参議入りである。
 ちなみに次兄・時光(母は大江維時女)の参議入りは貞元2年(977)30歳。

 父の兼通は時光を参議とした977年に歿してしまうが、朝光はすでに権中納言から
 権大納言となっており、父の死後も大納言に昇進している。
 権力を握ることになった叔父の兼家やその嫡子・道隆らとの関係も良好であった。

 顕光にとって運がよかったのは、その朝光が比較的若くして亡くなったことだろう。
 長徳元年(995)3月、大流行の疱瘡で、主だった公卿たちが次々とたおれるなか、
 朝光も落命した。享年45歳。

 いっぽうの顕光は、かなりの長命をたもった(78歳)。
 しかし、顕光と朝光は異母兄弟だったから兼通・兼家ほどの複雑さはなかったろう
 ものの、子息の兄弟逆転の構図が鏡のようで、面白い。

 ほかに知られた男子は、六男の正光
 『公卿補任』寛弘元年(1004)の条に、参議入りの記事がある。



 ❖兼通の女子

 長女は媓子。系図には顕光と同母の昭子女王としたが、朝光と同母の能子女王の
 所生とするのが一般。ただ、媓子は円融天皇の皇后となるのだが、その三か月後に、
 昭子女王が正三位に叙されていることなどから、母が昭子である可能性は高いと思う※1

 媓子は、后がねとして温存されていたのか、それとも同母兄(?)の顕光同様に父から
 あまり顧みられていなかったのか(『大鏡』には父の寵愛が薄かった旨、また生母が
 顕光と同じ元平親王女であることが書かれている)、入内がなんと27歳のときである。
 父が権力を手中にしたあとの天禄4年(973)のことで、年内に皇后となったが子はない。
 天皇より12歳も年上であり、さらに父の死後ほどなく歿している(979年)。

 次女は嫁子(『尊卑分脈』より。史料によって名が異なる)。
 円融朝で尚侍をつとめ、藤原誠信室、その没後源乗方室となったという(『大鏡』)。


 [参考文献]
 角田文衞『承香殿の女御』中公新書、1963年 ※1
 『新編 日本古典文学全集34 大鏡』小学館、1996年
 『新編 日本古典文学全集31 栄花物語①』小学館、1995年


 ☆ ☆ ☆ 
 ☆このシリーズの系図について☆
 
 参考文献は以下のとおり。
 作成方法など詳細は、「作成につき」の頁をご覧ください。
 ・『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男監修、講談社、2003年) ・『国史大辞典』(吉川弘文館)ほか日本史辞典類
 ・史料『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』『群書類従 系譜部』『続群書類従 系図部』『公卿補任』、六国史
 ・適宜、先行研究書籍



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