昨日の【日微通信】<井上内親王立后>の記事にて、聖武天皇の娘である
 井上内親王が、たった5歳(数え)で卜定されて28歳で任を解かれるまで、
 長きにわたり伊勢の斎王をつとめた、という話を少しいたしました。

 ところが、のちに光仁天皇の皇后となったころの彼女は、すでに二人の子持ち。

 そう、斎王でも、のちに結婚することはできるのです 稀少な例ではありますが。

 最も有名なのは、“斎宮女御”こと平安中期の徽子女王でしょう。
 帰京後彼女は村上天皇から求められて入内、規子内親王を生みました。
 なんとも不思議な運命で、この規子内親王ものちに伊勢斎王に定められ、
 母娘二代の斎王となったのです。

  徽子女王についてはこちら(過去記事)


 しかしなんと、母娘三代にわたって伊勢斎王となった女性たちがいます

 それが、井上内親王にはじまる三代でした。


 井上内親王の生んだ光仁天皇皇女酒人内親王
 天平勝宝6年(754)生まれの彼女は、母の井上38歳の娘ということになり、
 正史(享年76)に誤りがなければ、当時としてはかなり高齢出産だったのでは?

 母が罪人とされた宝亀3年(772)に斎王、母の死(殺害?)により3年後に解任されます。
 その後、当時皇太子となっていた異母兄の山部親王(桓武天皇)の妃とされました。
 母に罪を着せ、同母弟で皇太子だった他戸親王もろとも殺したかもしれない相手です!

 酒人内親王の薨去記事(『日本後紀』逸文、天長6年<829>8月20日)によれば、
 彼女はたいへん美しくなよやかで性格はかなり自由奔放、しかし桓武天皇の寵愛深く、
 天皇は彼女の好きにさせていた、といいます。
 愛されたのかもしれませんし、桓武に後ろ暗い気持ちがあったのかもしれません。


 酒人内親王の生んだ桓武天皇皇女朝原内親王です。宝亀10年(779)生まれ。
 延暦元年(782)、まだ幼い彼女は酒人の次の次の伊勢斎王とされました。
 ちなみに朝原が実際に伊勢へ下向したのは同4年(785)9月なのですが、
 その際は父の桓武や百官が大和まで見送るという仰々しさでした。
 そして天皇らの留守の間に、藤原種継暗殺という大事件が起こっているのです!

 朝原は同15年(796)、任を解かれました。原因は不明ですが、帰京後、
 異母兄・安殿親王(のちの平城天皇)の妃となっており、結婚のためかもしれません。
 (桓武天皇は、自分の異母の皇子・皇女同士を盛んにめあわせた)
 夫との間に子はなく、平城太上天皇の変(薬子の変)ののち、弘仁3年(812)、
 34歳で妃を辞退、許されています。同8年、母に先立って薨去、39歳。

 井上・酒人・朝原

 ここに三代にわたった因縁は途絶えたのです。
 
 

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