◆史跡案内◆京都

 長岡京のあった京都府向日市に、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏陵はあります。


 乙牟漏3

 乙牟漏4


 高畠陵。 

 乙牟漏2


 藤原乙牟漏(おとむろ、760-790)は、藤原良継の娘でした。桓武天皇の親王時代からの
 きさきで、桓武が即位すると、延暦2年(783)に夫人、そして皇后とされました。

 嫡子の安殿親王(平城天皇)以下、賀美能親王(嵯峨天皇)と、異母兄・大伴親王(淳和天皇)
 のきさきとなった高志内親王を生みました。桓武は自らの皇子皇女を多くめあわせており、
 自分の色濃い血筋が皇統を継ぐことを狙ったと考えられています。

 高志は恒世親王を生み、桓武の描いた理想のひとつだったのではないでしょうか。
 恒世は残念ながら早世してしまい、高志もまた、それより早くに亡くなってしまいましたが。

 ちなみに大伴親王の母は夫人の藤原旅子で、乙牟漏とは同じ藤原式家の女性
 父どうしが兄弟で、さらに旅子の母は乙牟漏の姉でした。

  参照:イラスト「乙牟漏と旅子」


 桓武天皇のあとを継いだ安殿親王(平城天皇)でしたが、この皇位継承に関しては、
 追い落とされて落命した皇太弟の早良親王事件が有名です。
 桓武の同母弟・早良を後継者と決めたのは、彼らの父・光仁天皇でしたが、
 むろん桓武は自分の子に継がせたい。そこで政敵に寵臣・藤原種継を殺されたのを
 契機に、早良親王による謀反を仕立て上げた……とされています。
 のちに桓武は、早良の怨霊に悩まされ続けることになるわけです。

 桓武が弟を退けて嫡子を後継に据えたい気持ちがあらわれた史料があります。
 延暦4年(785)4月に皇后宮に赤い雀が飛来したという報告が皇后宮大夫の
 参議佐伯今毛人からあり、桓武はこれを瑞兆として人々に恩典を施しています
 (『続日本紀』延暦4年5月19日条)。
 皇后乙牟漏所生の安殿親王をクローズアップするための瑞祥かもしれず、
 早良親王が廉を負って落命したのも、この年の9月のことでした。

 また乙牟漏の功績に、この長岡のほど近くに、藤原氏の氏神である奈良の春日大社の
 分霊を勧請したことがあげられます。現在の大原野神社につながっています。
 大原野神社は藤原氏女性の信仰篤く、女の子が生まれると、中宮や皇后になれるよう、
 祈願したといわれています。
 のちには藤原氏出身の后が大原野祭に奉仕することが例となっていたようです。
 藤原道長の娘・彰子を先に中宮となっていた定子と並んで中宮とするにあたって
 (定子を「皇后」と呼ぶ。これを一条天皇の一帝二后といい、前例のないこと)、
 藤原行成が、出家の后には大原野祭などの神事が不可能、という理由をあげたことが
 知られています(定子はじめほかの后はすべて出家の身であった)。



 延暦9年閏3月10日、乙牟漏は31歳の若さで崩御。
 皇后を「長岡山陵」に葬ったとする記事(『続日本紀』延暦9年3月28日条)によると、
 皇后乙牟漏は美しく優しく、良い母であったとされています
 

 




 乙牟漏陵への最寄り駅は、阪急京都線東向日駅。私は向日市文化資料館から
 向かったので、府道207号線を通って行きました。

 乙牟漏1

 207号線を右へ折れるところに、この標示が。
 道路はきれいに舗装されていますが、歩道が狭い区間もあり、あと基本的に
 山道なので、行きはほぼ登りっぱなしです。夜道は危険だと思います。

 このあたりは竹林も有名だそうで、「竹の径」が設けられ、「かぐやの夕べ」という
 催しが行われる日もあるそうです(詳しくは向日市観光協会サイトを参照)。
 上り坂は少々疲れますが、風情のある閑かなよい場所だと思いました。


 乙牟漏5

 陵の周りにも、竹が。

 乙牟漏6竹林

 



 夫君・桓武天皇陵の記事はこちら


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