◆史跡案内◆京都

 式子墓2

 式子内親王は、平安後期の女流歌人です。

 昨年京都に行った折、内親王の墓と伝えられる場所を訪れてきました。

 *** 式子(しきし、しょくし/のりこ)内親王の生涯を簡単に ***
 久安5年(1149)、後白河天皇の第3皇女として誕生。
 平家に叛乱をおこして敗死した以仁王を含み、同腹の兄弟姉妹は5人。

 伊勢斎宮となった姉に続き、式子も賀茂斎院となる。
 平治元年(1159)、平治の乱が勃発した年で、式子はかぞえで11歳。
 病により斎院を退下する21歳まで斎内親王としてつとめた。

 40歳代の建久年間、2度にわたり呪詛・妖言事件に巻き込まれ、洛外追放になりかける。

 晩年は、浄土教に帰依し、法然からの長い手紙も残る。
 建仁元年(1201)、大炊御門殿において病没。享年53。

 *** *** *** ***


 式子内親王は情熱的な思いを秘めた恋の歌で知られます。
 その歌の師は藤原俊成であり、息子の藤原定家とも交流がありました。
 室町時代、式子と定家の恋の妄執を題材とした謡曲定家」 というフィクションまで
 生まれました。(やはり、式子の歌が当時の人々の想像を呼び起こしたのでしょうね)

 定家の執心が葛となって式子内親王の墓に絡みつく、というおはなしです。
 定家葛
  ▲杉田圭『超訳百人一首うた恋い。公式個人誌 うた変。』メディアファクトリー、2011年

 謡曲「定家」超訳 (くじょう みやび日録)


 さて、式子内親王の墓と伝えられる場所とは、京都市上京区にある般舟院

 式子墓1

 ここには、室町時代の後土御門天皇後宮・贈皇太后庭田朝子陵などからなる
 陵墓・分骨塔群があります。

 この付近に、謡曲「定家」にある「定家葛の墓」があったと伝えられていたのです。
 それが、この敷地内に立つ、冒頭写真の石仏群・奥の五輪塔だといわれています。

 奥の五輪塔をアップで。
 式子墓3

 もちろん「伝」とあるように、言い伝え・伝説の域を出ないおはなしではありますが、
 なかなかロマンチックですよね
 


 なお、土日は開扉されておりませんのでご注意
 平日、おそらく早朝・夜間以外の時間帯に来られるのが確実かと思います。

 
 この石仏と塔は敷地の左手奥にひっそりとあります。
 前に鎖が張られていて、接近することはできません(最初の写真を参照)。
 最後の石塔の写真は望遠機能で撮ったものです。
 最寄りのバス停は「千本今出川」駅。



゚・:,。゚・:,。★ ↓↓↓ 古代史推進のために! クリックしていただけるととても嬉しいです゚・:,。゚・:,。☆
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

日本史 ブログランキングへ