◆史跡案内◆京都
京都の南、宇治の木幡(こはた)という土地は、藤原氏の墓所でした。
前編から引き続き宇治陵の史跡めぐりです。
☆前編~総拝所・基経墓?☆
前回の通り、埋葬地に石碑などを立てるようになったのは早い地域でも中世末期。
かつては埋葬地よりも葬儀の場を重視し、供養は墓所ではなく寺院での法要でした。
藤原道長の時代には少しずつ意識が変わり始めたのか、
道長は若いころ藤原氏の墓所である木幡が荒廃しているのを目にして心を痛め、
のちの寛弘2年(1005)、この地に浄妙寺三昧堂を建立しました。
建立の過程や供養当日(10月19日)の模様は、道長の『御堂関白記』に記されており、
願文は『本朝文粋』巻十三(大江匡衡「為左大臣供養浄妙寺願文」)に残されています。
同願文にも道長の見た木幡の荒廃の様子が、「従先考大相国[父兼家]、屡[しばしば]詣木幡墓所。
(…)古塚累々、幽邃[原文は土偏]寂々」と描写されています。
また『御堂関白記』によると、これは「現世の栄耀や寿命福禄のため」ではなく、
この山にいる父母や基経以下の先祖、および今後は「一門の人々を極楽に引導」する
ためであると述べられています(倉本一宏氏の現代語訳より抜粋)。
匡衡の願文のほか造仏には康尚、扁額と鐘銘の書は藤原行成と、当代一流の人物が
担っており、大伽藍ではなかったようですが、道長の並々ならぬ意欲がうかがえます。
ところが、後代には藤原氏の勢力とともに衰退し、室町時代(15世紀)に焼失。
廃絶した浄妙寺の所在は分からなくなっていましたが、現在の木幡小学校の東の墓地が
「ジョウメンジ墓」と呼ばれていたことから、同小学校付近が跡地と推測されていました。
昭和42年(1972)の発掘調査で、本堂の法華三昧堂の遺構が発見されました。
木幡小学校の外壁沿いにある碑と説明板。
もうちょっと頑張ってほしい気もしますが……
消えかかって見づらいですが、説明のアップです。
さて、藤原道長はこの浄妙寺のあたりに葬られたと思われます。
平定家『定家朝臣記(康平記)』の康平5年(1062)8月29日条によると、
藤原頼通が父・道長の墓参をした際の記録に、浄妙寺の大門(南大門)から
東へ行く、という記述があります(「先入御山中 従大門東行」)。
発掘された浄妙寺の位置と照らし、現在道長の墓と有力視されているのが、
32号墳(33号墳もか、ただし33号墳は藤原基房の娘という伝承がある)。
※基房の娘については下のリンク(宇治陵補遺)を参照※
というわけで、隣接している32・33号墳へ向かいました。
(実際に訪れた順は、32・33号墳→浄妙寺跡でしたが……)
*32号墳*
*33号墳*
それにしても、行成の扁額を掲げた道長による“藤原氏祈りの寺”浄妙寺も
いまや跡形もなく、墳墓すら誰のものやら判別できず……
なんだか物悲しい感じがしますね。
[参考サイト]
宇治市観光サイト内「歩っぷinうじ」
宇治市サイト内「浄妙寺跡発掘調査説明会を開催しました」(2010年4月27日)
[参考文献]
大津透『日本の歴史06 道長と宮廷社会』講談社、2001年
倉本一宏『藤原道長の権力と欲望 「御堂関白記」を読む』文藝春秋、2013年
『新日本古典文学大系27 本朝文粋』岩波書店、1992年
倉本一宏全現代語訳『藤原道長 御堂関白記(上)』講談社、2009年
「康平記」『群書類従 二十五輯』続群書類従完成会、1942年
32・33号墳★印付近
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宇治陵・後編~浄妙寺跡・道長墓?