2016/03/25
  安和の変おこる

 安和2年(969)3月25日、左馬助源満仲(みつなか)らが左兵衛大尉源連(つらぬ)らを
 謀反の意ありとして密告しました。

 右大臣藤原師尹(もろただ/もろまさ)(故・藤原師輔の同母弟)らはただちに内裏警固・固関を
 行い、前相模介藤原千晴(平将門の乱を平定した藤原秀郷の子)らを一味として逮捕。

 事態はそれにとどまらず、左大臣源高明(たかあきら)が事件に関与したとして、
 翌26日、臨時除目で大宰権帥として九州への左遷が決まりました。
 師尹は左大臣となりました。
 満仲はライバルの追い落としに成功したうえ、密告の功で昇進しています。
 


 この事件は、源氏の有力者・源高明を警戒した藤原氏の陰謀とされ、
 藤原氏の他氏排斥の最後の事件として扱われています。

 高明は醍醐天皇の皇子ですが、母の身分は更衣で、臣籍降下しています。
 (村上天皇は高明の異母弟にあたる)
 政界では順調に昇進し、康保3年(966)右大臣、時に従二位。
 はじめは藤原実頼の娘を妻に、その死後実頼の異母弟・師輔の娘を妻とします。
 師輔の娘も亡くなると、さらにその妹(愛宮として有名)を妻に迎えるなど、
 藤原氏特に師輔との関係は良好でした。


 師輔の死後、高明は娘を村上天皇の皇子・為平親王の妃に納れていました。
 ところが、三人は同じ藤原安子(師輔娘)の所生でありながら、為平親王は皇位から
 遠ざけられ、兄・冷泉天皇の東宮は弟・守平親王(円融天皇)とされました。
 そのうえおこったのが、この安和の変でした。
 高明はのちに許され京に戻るものの、政界からは引退しました。


 なお、師輔の姉娘の生んだ高明の男子が、のちの“四納言”源俊賢で、
 妹娘の愛宮の生んだ女子が、のちに藤原道長の妻となる源明子です。

 光源氏
 ▲大和和紀『あさきゆめみし完全版 1』講談社、2008 表紙
 ○源高明は「光源氏」のモデルの一人といわれる○ 

 


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