葛城氏から蘇我氏、そして藤原氏へ受け継がれる“天皇家のミウチ”


 「外戚政治」は藤原氏だけじゃない?

 藤原氏の摂関政治は事実上の「外戚政治」として、ひょっとして“悪名高い”のでは
 ないでしょうか? しかし、その罪(??!)はなにも藤原氏の専売特許ではありません。
 藤原氏より前に栄えた蘇我氏、さかのぼれば葛城氏にもその可能性はありました。

 

 蘇我馬子の“華麗なる閨閥”

 前回、蘇我馬子の華麗なる閨閥について簡単に書きました。※
 つまり、藤原氏より前に栄えていた蘇我氏がすでに、天皇家(大王家)との
 血縁・婚姻関係を重ねていた
ということです。

  ※馬子の姉妹、堅塩媛と小姉君(蘇我稲目の娘たち)は欽明天皇妃、
  馬子の娘たちはそれぞれ天皇や候補者に嫁ぐ。※
  詳しくは前回の記事参照蘇我馬子歿す


 葛城氏との関わりを主張したかった蘇我氏

 敏達天皇時代から、続く用明・崇峻・推古天皇時代と、歿するまで一貫して
 大臣(おおおみ)として政権の中枢にあった蘇我馬子。

 彼が晩年、姪の推古天皇に要求したのが葛城県(かつらぎのあがた)でした。

 馬子の上奏によると、
   葛城縣者。元臣之本居也。(『日本書紀』推古32年10月1日条)
 葛城県は自分の「本居(うぶすな)」であると述べています。

 そもそも葛城氏と蘇我氏は『古事記』によれば、ともに武内宿禰を祖としています。
 推古32年の馬子の主張は、滅んだ葛城氏を継承したのが蘇我氏と言いたいのか。
 もしくは、馬子の母(つまり稲目の妻)が葛城氏出身だった可能性もあります。

 結局、要求は推古から却下されてしまいますが、馬子が“蘇我氏は葛城氏に
 連なる
”との意識を持っていたこと
(主張していたこと)が伺われます。


 大王家と継続的な婚姻関係を持った葛城氏

 大王家内部のみで婚姻を繰り返すには限界がありますし、政治上においても
 有力豪族の協力関係を築くために婚姻は重要な手段です。

 大王家と目立った婚姻関係の続いた有力豪族として、葛城氏がまず挙げられます。

 仁徳天皇の皇后・磐之媛は葛城氏の女性で、履中・反正・允恭天皇の母です。
 その履中天皇の妃に黒媛、雄略天皇の妃に韓媛(清寧天皇母)などがいます。

 葛城氏が滅び、蘇我氏が大王家との婚姻を結ぶ特別な有力豪族の地位を占めるに
 あたって、葛城氏とのつながりが重視された(利用した)
とも考えられます。



 蘇我氏と婚姻関係を結んだ藤原氏

 645年の乙巳の変で本宗家が滅んだ蘇我氏ですが、その傍流は政治の中枢に
 依然として残り、蘇我氏の女性たちの血は天皇家に入り続けます。
 天智・天武天皇や天武の後継者の皇子も、蘇我氏系の女性を多く娶っています。☆

   ☆天智のもとでのちの持統女帝や元明女帝を生んだ蘇我倉山田石川麻呂の娘たち、
   天武の皇后は持統、その間に生まれた皇太子・草壁皇子の妃は元明、
   天武の有力な皇子・大津の妃は蘇我赤兄の娘の子(天智の皇女)などなど……☆

 すでに蘇我氏が天皇家の一翼を担うに値する尊貴な血脈と認知されていたのでしょう。

 蘇我氏が葛城氏とのつながりを利用したのと同じ図式が、藤原氏と蘇我氏の間に見られます。
 藤原不比等蘇我連子の娘・娼子を嫡室とし、武智麻呂房前が生まれています。

 不比等はかつての馬子と同じように、蘇我氏の血脈を利用し、“蘇我氏に連なる者
 として、天皇家の血脈に入り込むための尊貴性を手に入れたのかもしれません。


 藤原氏だけが到達した摂関政治

 藤原氏は女性を通して天皇家に深く入り込み、その状態が長きにわたって続きました。
 そして、摂関政治という事実上の「外戚政治」につなげることができたのです。

 藤原氏!
 (イメージ画像、BS-TBS『高島礼子 日本の古都』「藤原道長大出世の謎」より拝借)




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