奈良時代の痕跡残る唐招提寺
鑑真はもちろん、孝謙・称徳天皇や藤原仲麻呂の足跡も
2009年に金堂の平成大修理が完了し、落慶法要が話題となった唐招提寺。
奈良時代の天平勝宝年間(753年)、苦労の末に唐から鑑真が来日。
唐招提寺は、鑑真が東大寺で5年を過ごしたあとに賜った地に建てられました。
藤原鎌足の娘・五百重娘所生の天武天皇皇子・新田部親王の旧宅地でした。
当初は鑑真の私寺・道場であり、金堂もない小規模なものでした……
平成の初夏・唐招提寺に、古代・平城の面影を追って旅してみました。
奈良時代の遺構、金堂・講堂
◆金堂
現存する唯一の奈良時代の寺院金堂です。南大門をくぐるとすぐ目に入ります。
金堂は寺院には欠かせない伽藍ですが、調査によれば781年に伐採された部材が
存在することが判明し、金堂の建立はこれ以降ということが立証されています。
781年というと、なんと平安京遷都を断行した桓武天皇が即位した年にあたります。
鑑真のための唐招提寺、その中心となる金堂の建立は、鑑真来日より約30年経過した
鑑真没後の時点となり、かなり遅れていたといえるのです。
鑑真の弟子・如宝らが建立に尽力しました。
また、平成大修理まで屋根にあった鴟尾(しび)は、東側が鎌倉時代、西側はなんと
創建当初の奈良時代のものだったとか 現在は宝物館「新宝蔵」で拝見できます。
▲当時の金堂内部を再現したCG写真(『天平を駆けぬけた男と女たち』TBS、2009年より)
◆講堂
金堂の奥にある講堂は、平城宮の東朝集殿を朝廷から賜り移築・改造したもので、
天平時代の平城宮の面影をとどめる唯一の建築物です。金堂・講堂ともに国宝。
孝謙・称徳天皇の南大門勅額
西ノ京駅から薬師寺を通りすぎ唐招提寺にいたると、まず見えるのが南大門です。
そこに掲げられた扁額は、聖武天皇と光明皇后の娘である女帝・孝謙天皇(重祚して
称徳天皇)の宸筆と言われています。
148cm×117cmの檜素材です。
パンフレットなどの文字(下写真)は、この勅額からとられています。中国・王羲之風の行書。
南大門に掲げられているものは複製で、本物は新宝蔵で見ることができます。
藤原仲麻呂が寄進した食堂の跡地
唐招提寺の建立には、奈良時代の実力者・藤原仲麻呂の協力があったことも
史料から知られており、食堂(じきどう)を寄進したとされています。
仲麻呂の乱を生き延びた(赦された)唯一の仲麻呂の子息・刷雄(よしお)の、
鑑真周辺との親交が影響しているのでしょうか。
食堂跡地は講堂の奥、開山堂や芭蕉石碑を右手に見ながらのぼったあたりです。
新田部親王の倉? 最古の校倉造・経蔵
校倉造(あぜくらづくり)といえば奈良の正倉院!……ですが、実は唐招提寺の
経蔵はそれよりも古い時代のもので、日本最古の校倉造です。
新田部親王邸の米倉を改造したものだといわれています(新田部時代唯一の遺構)。
なお、一回り大きい奥の宝蔵も校倉造ですが、寺創建時のものとされています。
煬帝もお気に入り、鑑真の故郷の花・瓊花
鑑真も愛した、春の終わりと夏の到来を告げるという瓊花(けいか)唐招提寺の御影堂供華園および鑑真の御廟にも咲いています。
鑑真の故郷・中国揚州が産地で、隋の煬帝もお気に入りだったためかつては
門外不出の幻の花だったとか。日本国内で貴重な株のひとつです。
白いアジサイみたいな可憐な花を咲かせる木です。
とてもよい香りがします。この季節(5月GW)ならではでした。
☆ ★ ☆
いかがでしょうか。古代史にたっぷり浸れる場所、唐招提寺
人気の観光地ではありますが、東大寺周辺のように人でごった返す感じもなく、
閑静で心落ち着く、とても風情あるお寺でした。
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