◆史跡案内◆奈良

 幻の八角塔、万葉歌碑、そして呪いの石?


 称徳天皇(孝謙上皇)の夢、「西の大寺」


 奈良市の西ノ京エリアは、薬師寺や唐招提寺が人気の観光地ですが、
 東大寺を意識した西の大寺」=西大寺も古代史スポットとしてはずせません。

 天平宝字8年(764)に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)が、藤原仲麻呂の乱の戦勝祈願として
 建立を発願した寺が西大寺なのです。孝謙・称徳天皇といえば、名を阿倍内親王という、
 古代最後の女帝です
。現在の西大寺に彼女の足跡を追ってみました。

 西大寺東門
 ▲大和西大寺駅から近い入口は、正門ではなく東門



 東塔(八角七重塔)基壇

 近鉄大和西大寺駅からすぐに位置し、現在では目立って大きなお寺ではない西大寺。
 実は衰微が激しく、創建当時の建物は残っていないのです。

 建立当初は東大寺の50町(約82万平方メートル)に対して31町(約52万平方メートル)。
 女帝の父・聖武天皇(ちなみに母は光明皇后)が精魂を傾けた東大寺に規模は劣るものの、
 興福寺が16町(約26万平方メートル)だったというのですから、当初の豪華さが推測されます。
 伽藍は薬師金堂・弥勒金堂・四王堂・東西五重塔などが並び、ことに金堂が二つある寺は
 珍しいものだったそうです。


 称徳天皇存命中には実は完成しておらず、女帝およびほどなく左遷され亡くなった
 道鏡という後ろ盾を失ったため(いずれも770年)、当初の建設計画は簡略・縮小されて
 宝亀年間(770~780)に完成したと推測されています。


 西大寺正門より
 ▲正門(南門)方向から見た当時の遺跡・八角東塔の基壇


 当時の遺跡として必見は、八角東塔の基壇です。
 平城京には東大寺や興福寺の立派な伽藍が立ち並び、中でも破格の東大寺は
 東西の塔も巨大な七重塔(高さ70メートル?)がそびえていたといいます。

 称徳天皇は、東大寺に勝る塔を計画していました。
 八角の東西七重塔です。完成すれば高さ80メートルに及ぶと推測されています。

 西大寺八角塔基壇
 八角の雰囲気が伝わるかな?

 西大寺八角塔基壇説明板


 昭和29年の発掘調査で、実際に八角の基壇が認められ、この八角塔の
 計画は伝説ではなく事実だったことが証明されました。


 のちに実現した八角塔の巨大なものは、平安京の法勝寺八角九重塔が有名です。
 院政期の六勝寺のひとつで白河天皇御願により建てられましたが、現存はしません。

 京都アスニー「京都市平安京創生館」のジオラマでもひときわ目立っています。
 八角塔 

 八角塔にまつわる呪いの話

 ところが上述のように西大寺の計画は全体的に縮小されたため、東西の塔も
 四角五重塔となってしまったようです。

 この縮小に関して、『日本霊異記』に面白い伝説が残っています。
 「塔の階(こし)を減じ、寺の幢(はたほこ)を仆(たふ)して、悪報を得し縁」(下巻36)
 称徳天皇崩御後の政権トップ・藤原永手(北家)が呪われた説話です。
 永手の男子(家依)の病身に亡き父の霊が憑依し、告げます。

   我は永手なり。我、法花寺の幢を仆さしめ、後に西大寺の八角の塔を四角に成し、
   七層を五層に減じき
。此の罪に由りて、我を閻羅王の闕
(みかど)に召し、
   火の柱を抱かしめて、挫釘(へしくぎ)を以て我が手の於(うへ)に打ち立てて(…)

 看病僧の献身により永手は閻魔大王から罪を許され、家依の病も回復します。

 そもそも記載には永手の歿年に矛盾があったり、当然事実とは思えませんが、
 一部仏教徒からの永手の悪評がうかがわれる説話です。
 (永手の霊が息子の体を奪ったようにも読めるのが若干怖いのですが)



 孝謙・称徳天皇の歌碑

 境内にもうひとつ、称徳女帝の足跡を見つけました。

 西大寺歌碑1

 此里者 継而霜哉置 夏野尓 吾見之草波 毛美知多里家利

 この里は継ぎて霜や置く夏の野にわが見し草は黄葉ちたりけり(万葉集19-4268)

  この里は霜が降り続くのでしょうか。夏野で見た草は、すっかり黄葉しています。
   ※碑は「霜置哉」になっていますが、改めています

 詞書によると、孝謙天皇と母の光明皇太后とがともに大納言藤原仲麻呂
 家を訪れ、黄葉した沢蘭一株を引き抜き、内侍に持たせて仲麻呂以下に賜った歌、
 といいます。素直に読めば孝謙女帝の歌ですが、光明皇太后の可能性もありますね。

 それにしても、この歌碑、建てたのは「道鏡を守る会」!
 女帝の残した歌は少ないけれど、仲麻呂邸で詠んだ歌を歌碑にするとは!
 西大寺歌碑2


 この歌、里中満智子『女帝の手記 孝謙・称徳天皇物語』にも大事な場面として
 切り取られています。
 漫画での女帝は藤原仲麻呂と愛し合い(事実は仲麻呂が女帝を自在に操るため
 籠絡していただけの話)、のちにその愛は崩れますが、彼女にとっての仲麻呂との
 愛の象徴がこのとき仲麻呂邸で手折られた沢蘭で、非常に印象的な小道具です。
 
 西大寺歌碑3
 ▲里中満智子『女帝の手記 孝謙・称徳天皇物語 3』(講談社KCDX版、2015年)


 ちなみに沢蘭(さわあららぎ)=サワヒヨドリ はこんな花です。菊科、フジバカマ属。
 沢蘭
 季節の花300様より拝借


 大石の呪いに関連? 石落神社

 駅から東門へ入るとき、向かいに小さな神社を発見しました。
 神社というか、小さな祠、といった趣で雰囲気があります。
 中には入れませんでしたが、その名も石落神社

 西大寺石落神社1

 ん、西大寺のそばで「石落」とは……

 由来を見ると、西大寺を中興した叡尊(えいぞん/えいそん、1201~90)が、西大寺の
 鎮守社として寺の飛び地に少彦名命を勧請したということです。

 西大寺石落神社2

 実は『続日本紀』には西大寺東塔に関する不思議な話が載っています
 神護景雲4年(宝亀元年/770)2月23日条。

   破却西大寺東塔心礎。其石大方一丈餘。厚九尺。東大寺以東。飯盛山之石也。
   初以數千人引之。日去數歩。時復或鳴。於是。益人夫。九日乃至。即加削刻築基已畢。
   時巫覡之徒。動以石崇爲言。於是。積柴燒之。潅以卅餘斛酒。片片破却。棄於道路。
   後月餘日。天皇不予。卜之破石爲崇。即復拾置淨地。不令人馬踐之。
   今其寺内東南隅數十片破石是也。

  東塔の心礎に据えようとした大石が数千人で動かしてもほとんど動かず、時に唸り声を
  あげる。なんとか基礎を築いたが、祟りがあるかもしれないということで石を焼き、酒を注ぎ、
  砕いて棄てた。その後称徳天皇は病となる。やはり砕いた石の祟りということで、再び拾い、
  清らかな土地に置き、人馬が踏まないようにした。いまは寺の東南隅にある。


 この祟りの石におそらく関係のあるものでしょう。
 称徳女帝が亡くなったのはこの年の8月です。 



 [参考文献]
 『週刊日本の名寺をゆく 仏教新発見23 西大寺』朝日新聞出版、2016年
 中田祝夫校注・訳『新編日本古典文学全集10 日本霊異記』小学館、1995年
 中西進『万葉集 全訳注原文付(四)』講談社、1983年
 里中満智子『女帝の手記 孝謙・称徳天皇物語 3』(講談社KCDX版、2015年)
 宇治谷孟『全現代語訳 続日本紀(下)』講談社、1995年


 ☆ ★ ☆
 東大寺や興福寺に比べるとマニアックなお寺になってしまった西大寺。

 当時の建物は残っていませんが、ゆかりの孝謙・称徳女帝の足跡は、
 十分うかがえたのではないでしょうか



 ☆参考:境内図(見づらい場合はクリックを)
 西大寺地図
 歌碑は記載がありませんが、鐘楼の近くにありました。

 ◆関連記事◆【含妄言】孝謙女帝と藤原仲麻呂

 

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