◆2016/6/12
蘇我入鹿歿す(645年6月12日)
「乙巳の変」のクーデターに斃れる
そがのいるか。別名林臣。宗我大郎、鞍作。蝦夷の子。
645年のこの日、クーデターで中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足らの一派により、
皇極天皇の前で斬殺されました。いわゆる「大化の改新」の幕開けでした。
『日本書紀』によれば、皇極朝にはみずから国政を執って威は父に勝ったといいます。
643年には、蝦夷が病により出仕せず、私的に紫冠を入鹿に授けて大臣の位に擬した
ことが記されています。
ただ、藤原氏の歴史書『藤氏家伝』には、僧旻(みん)の塾に学び、師に
「吾堂に入る者、宗我大郎に如くものなし」
と言わせたほど、入鹿が優秀な人物であったことが記されています。
さらに、『紀』には甘樫丘に武器庫を備えた要塞のような家を父子で並び建て、
蝦夷の家を「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷の宮門」と称した、とされていますが、
近年では、緊迫する国際情勢に備えて飛鳥の防備をはかっていたとする意見もあり、
国史により貶められていた蘇我氏の再評価が進んでいます
▲奈良、甘樫丘よりの風景
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