◆本紹介◆飛鳥時代、杉本苑子

 杉本苑子『天智帝をめぐる七人』


 周囲の目から浮き彫りにした天智天皇像

 昭和62年から平成6年まで、「オール讀物」他に読み切り連載の形で発表された7連作。

 天智天皇をめぐる男女七人、それぞれを主人公に据えることで、彼らの運命に大きく
 関わった天智天皇中大兄皇子という人物を浮き彫りにしようと試みた作品です。

 冒頭「風鐸」の軽皇子(孝徳天皇)はまだ乙巳の変の前からはじまり、
 最後の「白馬」の鵜野皇女(持統天皇)では天智天皇の死後まで――
 7つの短編はときに関連し合いながら、ときに重複した時間や出来事を映し出しつつ、
 少しずつ時代は先へと進んでいきます。


 「華奢な外容に冷酷な本性を秘めた策士が生きた修羅を、
 七人の視線を通して濃密に描く、連作歴史短篇集
(文庫版カバーより)

 
 天智帝をめぐる七人
 ▲1997年の文庫版(文春文庫)の表紙、装画は佐多芳郎。


 天智帝をめぐる七人とは

 章立て、つまり天智帝をめぐる七人をご紹介します。

  風鐸―軽皇子の立場から
  琅玕―有間皇子の立場から
  孔雀―額田女王の立場から
  華鬘―常陸郎女の立場から
  胡女―鏡女王の立場から
  薬玉―中臣鎌足の立場から
  白馬―鵜野皇女の立場から

 軽皇子は天智の叔父で、乙巳の変のクーデターの後即位(孝徳天皇)。
 有間皇子はその息子。父の死後、事実上天智によって殺された。
 額田女王は天智の弟・大海人皇子(天武天皇)から天智のもとに奪われる女性。
 常陸郎女は有間を陥れた蘇我赤兄の娘。天智のもとに嫁ぐ。
 鏡女王は額田女王の実姉で、中臣鎌足の正室。
 中臣鎌足は乙巳の変以前からの天智の忠臣。
 鵜野皇女は天智の娘で天武に嫁ぐ、のちの皇后、持統天皇。



 敗者への温かいまなざし

 天智天皇を正面から直接描くのではなく、主人公は周囲に生きた人たちです。
 しぜん、彼らの中には敗者(とくに“勝者”天智天皇に対して)もおり、作者・杉本苑子の
 敗者や陰になった者たちを掬い取ろうとする姿勢が感じられます。

 例えば冒頭の「風鐸」では軽皇子の視点からの物語ですが、題名の「風鐸」は
 蘇我林臣鞍作の邸宅の軒先にさがっていたものを表しています。
 「蘇我林臣鞍作」とは、あの乙巳の変で殺されてしまう蘇我入鹿です。

 彼の描写は、作者の思い入れを感じさせます。

    権家の御曹司らしい自信に満ちた態度。闊達磊落な言動が、蘇我氏に反感を
   抱く者の目には、時に、
    「傲慢!」
    と映るらしいが、それが嫉視から生じた誤解であることを、軽皇子ら、鞍作の
   人柄に傾倒する友人たちは熟知していた。
    一見、強引と受けとられがちな行動力の裏に、綿密、誠実な配慮をひそませて
   おり、長上への礼儀はどんな場合も忘れない。
    育ちのよさ、おおらかさ、そして何よりはその眉目の俊秀さが、たまらない魅力と
   なって仲間たちの心を捉える。
 [「風鐸」文庫版11頁]


 また、天智天皇の死後の壬申の乱で勝利し、最終的には“勝者”といえるであろう
 弟の大海人皇子天武天皇ですが、兄が生きているころは、ずっと従い続けました。
 そのゆえか、全編を通して天武天皇に思いを寄せた描写が目立つのも特徴です。

 
 作者は「あとがき」で、「歴史上の人物に、感情的な色分けをするのはつつしむ
 べきことですけれど、正直いって私は、天智帝という人があまり好きではありません

 とはっきり書いています(やっぱりそうか……と、読み終わって納得)。

 ただ、天智天皇には、崩御の折、愛馬を駆って山科の山奥深くに入ったようだが、
 沓だけが残り行方は杳として知れない、という伝説が残っています(『水鏡』)。
 最後の「白馬」の章で、感慨深げに鵜野と大海人が語り、余韻を残して幕を閉じます。


 もしかすると、天智天皇についての描写は物足りなく感じられるかもしれません。
 小説は七人の主人公たちを描いているため、天智の姿は彼らの姿の向こうに垣間見える
 だけですから……しかしときには、“英雄”の見方を変えてみるのも面白いと思いました。

    

 天智天皇の別の顔―中臣鎌足から見た天智天皇

 印象的なのは、終盤の「薬玉」で中臣鎌足からの視点の物語でした。

 題名の「薬玉」は、文字通り薬草などを球形にかたどった飾り物。
 天智の無二の忠臣で大海人との間の緩衝となっていた鎌足がすでに病魔に侵されて
 いることも象徴され、最終章の「白馬」でついに病没します。

 それまでの物語(ほかの人物からの視点)が天智への恐怖や畏怖、怒りや悲しみ、
 もしくは諦めの境地など、どちらかというと息詰まる空気に満たされていたのに比べ、
 鎌足と天智の間には人と人との深いつながりや優しさがあります。

   (…)中大兄と呼ばれていた若いころから、天智帝が鎌足にだけは気を許して、
   時に見せる駄々ッ子じみた我がまま……。鎌足はそれを許していたし、やがて必ず
   決断し、いったん心に決めたらもはや前へ進むことしか考えない帝の、華奢な外容とは
   うらはらな気性の勁
(つよ)さ、爽やかさを愛してもいたから(…) [「薬玉」文庫版209頁]

 鎌足臨終の場面では、男泣きに悶える天智。

   「(…)死ぬなどとなぜ申すのだ鎌足。おれを置いて、そなたは一人、どこへ去って
   行こうというのだ
(…)いやだッ、どこへも行かせはせぬぞ」 [「白馬」文庫版256頁]


 小説の終盤まで築き上げられた冷徹な天智帝の姿が、一気に転換するようです。

 そして、最終章の終幕では、もちろん崩御の場面など直接描かれず、残された伝説のみが、
 今まさに立ち上がらんとしている大海人皇子と鵜野皇女を通して、語られているのです。

 ☆特集・杉本苑子

 
 
 ■書誌データ■
 文庫本で300頁弱に収まる7つの物語。
 




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