◆古典・水鏡◆第10回

 水鏡 2



 歴史物語『水鏡』、姉ブログで神武~宣化天皇まで読んできました。
 その続きの欽明天皇から読んでいます☆

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 前回までのあらすじ

 孝徳天皇の後は、再び女帝・皇極天皇が斉明天皇として重祚した。
 中臣鎌足のはじめた維摩会など、仏教も盛んであった。

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 ■40代 天智天皇

 舒明天皇の第二皇子。母は斉明天皇。孝徳天皇即位とともに東宮となる。


 +中臣鎌足を初の内大臣とする。
 +中臣鎌足に藤原の姓と大織冠を賜う。
   鎌足は病が重くなり、見舞いの天智天皇にたずねられ、
    「もうこの世の限りでございます。何事も申し上げることなどありません」
   と答えた。
   天皇は涙に咽んで帰られた後、弟東宮(大海人皇子=天武天皇)を遣わし、
    「鎌足大臣の忠臣ぶりに比す者はなく、天下万民が別れ難いと思っている。
    大臣の子孫の末まで恩恵を施し、長年の恩に報いよう」
   と伝えた。
 +中臣鎌足が亡くなった。
   天智天皇にとっては、若い皇子のころ御沓を拾い捧げた出逢いから即位を経て
   この日にいたるまで、互いに誠意をもって心を通わせ合っていられたので、
   御年56なので仕方ないなどとも慰められない。
 ここまで読んできた印象だと、前代斉明天皇の維摩会の記事など、
  中臣鎌足の扱いがわりと大きい。天智天皇の記事でも、天皇の功績の話はもちろん
  最大の難局であった外交問題などはなく、鎌足と天皇の物語が半分強を占める。

  なお、「内大臣」とあるが、「内つおとど」であり、のちの「内大臣」ではない。

 +天皇の子、大友皇子を太政大臣とする。
   本来なら東宮に立たれるべきが、天皇の弟の大海人皇子が東宮であったため。
 +東宮(大海人皇子)が吉野山へ入る。
   病が重くなった天皇が東宮を呼び、「もう帝位をそなたに譲りたい」と仰せがあると、
   東宮は「私は多病の身、位は皇后様にお譲りし、大友皇子を摂政となさいませ。
   私は仏道に入ります」とそのまま吉野山に入ってしまった。
 +大友皇子が東宮となる。
 『日本書紀』にもある、壬申の乱前夜のくだりである。

 +天智天皇の行方がわからなくなる。
   天皇は馬に召され、山科の林へ入られて行方が分からなくなった。
   ただ、沓だけが残っていたのを、陵に籠め申し上げた。
 『日本書紀』にはない伝説的記述(天智紀は「天皇崩于近江宮」と明記)。
  死を神聖視したのであろうか。天智天皇陵は山科であることが確証されている。




 
 天智天皇治世の記事というよりは、
  1:天智天皇と中臣鎌足の物語
  2:壬申の乱前夜
 といった内容。

 天智天皇の崩御を明確に描かず、伝説に昇華させている。


  [参考文献]
  ・河北騰『水鏡全評釈』笠間書院、2011
  ・宇治谷孟『全現代語訳日本書紀』講談社、1988

  
 
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