今年もこの日がやってまいりました!

 保元元年(1156)7月14日、藤原頼長歿す。

 鳥羽法皇の臨終後、左大臣・藤原頼長は、
 崇徳上皇とともに後白河天皇方と戦って敗れます(保元の乱)。
 7月11日の戦で流れ矢に当たりながら奈良まで逃れ、
 そこで重傷に苦しみながら、この日の巳刻(午前10時ごろ)、
 ついに息を引き取ったそうです。37歳。
 新暦では8月1日にあたります。

 宇治から奈良へ逃れていた頼みの父・忠実にも面会を拒まれ、
 母方のおじにあたる千覚律師のいる興福寺の房で亡くなりました。
 興福寺の五十二段(階段)のあたりの木々を、頼長が身を隠した
 とされることから「左府の森」と呼ぶそうです。 ※左府は左大臣で頼長のこと。


 今年も本日、大した内容ではありませんが、頼長祭 を開催

 山本頼長2
 ▲2012年NHK大河ドラマ平清盛』での、山本耕史くんの熱演
 みんなの印象に残る一言「お題は春ぞ」


 今年は、この春奈良で撮影してきた「左府の森」付近と思しき写真を掲載!
 左府の森
 言い伝え的な話ですし、現地には特に案内などはありません。


 今年は、頼長の可愛い(かもしれない)話をひとつ
 頼長はたいへんな勉強家で、『愚管抄』の作者で立場上頼長には批判的な慈円 
 (頼長と対立した異母兄・忠通の子)をも感服させ、やはり秀才の誉れ高い藤原通憲
 (信西)とも学問上の激論を戦わせ勝利するなど、すぐれた学才を持っていました。

 ところが実は、その知識はあまり実社会に役立たない類のものだったのでは疑惑

 頼長、中国の古典にはたいへん通じていましたが、日本の歴史はさっぱり。
 だから貴族社会に大切な先例・故事に疎かったりしたのです(和歌も苦手)。
 しかも、自分の子に「ただつね」(罪人「(平)忠常」に通ず)と名づけようとして
 父・忠実にツッコまれたりもしています(『台記』天養2・1・2条)。
  元木泰雄・松薗斉編著『日記で読む日本中世史』ミネルヴァ書房、2011


 ☆頼長*リンク集*(過去記事)☆

  ▶大河ドラマ編: 「平清盛」山本頼長特集
  ▶史実編: 頼長と猫頼長と鸚鵡



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