◆2016/8/3

 藤原不比等歿す(720年8月3日)


 藤原不比等の略歴と出生の謎

 ふじわらのふひと。中臣(藤原)鎌足の次男。
 文武天皇2年(698)、藤原姓の独占的使用を認められ、鎌足の政治的遺産を継承、
 のちに道長へとつながる藤原氏の事実上の祖となる。

 正二位右大臣(太政官首班)をもって薨去、歿後に太政大臣正一位を贈られる。
 大宝律令制定の主導、養老律令撰定を主宰、平城京遷都の主唱者とされる。
 4人の男子は政界に活躍、女子に文武天皇の夫人で聖武天皇の母宮子、
 聖武天皇の皇后で孝謙・称徳天皇の母光明子など。

 眉月の誓2
 ▲長岡良子『眉月の誓 2』ボニータ・コミックス版(古代幻想ロマンシリーズ)
 表紙は主人公・史(藤原不比等)。実は天智天皇の落胤?という設定。



 不比等出生の秘密、天智天皇ご落胤?!

 不比等の名は、彼の存命中もしくは薨去後しばらくは「(ふひと)」と記されており、
 こちらが本来の記述となります。これは彼を養育した田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)
 いう人物の史姓に由来した名です。『尊卑分脈』には、不比等は「避くる所の事有り」、
 山科の田辺の家で育てられたとあります。

 また『大鏡』には、鎌足に天智天皇が孕み女御を与え、生まれてくる子が女ならば引き取り
 男ならば鎌足の子とせよ、と約束し、その生まれた子が不比等だという話があります。


 これらから、不比等=天智天皇ご落胤ということがよく囁かれます
 長岡良子の漫画<古代幻想ロマンシリーズ>なども、その説から話を紡いでいます。


 しかし史実としては、むしろ不比等の兄(長男)でありながら出家している定恵(じょうえ)
 ほうが、ご落胤の可能性が高いように思えます。
この父は天智ではなく孝徳天皇ですが
 鎌足は孝徳天皇がまだ軽皇子であった時代に接近した時期があります。
 そのとき寵妃阿倍氏の世話を受けたともされ、それに関して上述の『大鏡』とまったく同じ
 構図の約束(阿倍氏の腹の子を女子なら引き取り男子なら鎌足の子に)を交わしたという
 説話も存在するからです(『多武峯略記』)。

 約束云々の信憑性は別としても、長男の不可解な出家に対する答えの一つとして
 ありうる話にも思えます。
 定恵と次の男子不比等誕生との間には約15年の開きがあり、不比等が生まれるより前、
 親戚の意美麻呂(おみまろ)に鎌足の家を継がせることになっていたといいます(『尊卑分脈』)。
 「避くる所の事」は意美麻呂への配慮だったのかもしれません。

 不比等の誕生は斉明4もしくは5年(658、659)、父の鎌足は45、6歳にもなっていました。


 [参考文献] 高島正人『藤原不比等』吉川弘文館、1997年



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