◆2016/8/20

 待賢門院藤原璋子歿す(1145年8月22日)


 崇徳天皇の生母。さて崇徳の父は誰?

 平安後期、鳥羽天皇の中宮崇徳・後白河天皇の生母

 藤原璋子(たまこ/しょうし)は、院政期ころには代々天皇の外戚として権勢を振るっていた
 藤原閑院流の出身。父は藤原公実、母は堀河・鳥羽天皇二代の乳母・藤原光子。

 璋子
 ▲法金剛院所蔵「待賢門院像」


 幼少時より“治天の君”白河法皇に養育されましたが、美女揃いと称された閑院流の璋子も
 可愛らしい少女であったのか、いつのころからか白河を魅了するようになったとか……

 白河と璋子の関係は“公然の秘密”だったともいわれています――。
 例えば、15歳ころ申し入れた摂関家の嫡子・藤原忠通との縁談は、遠慮されています。

 結局、白河の孫・鳥羽天皇へ皇女待遇で入内、ほどなく中宮に冊立されました。
 翌年には鳥羽天皇の第一皇子・顕仁を出産するのですが……



 衝撃的な書籍があります。角田文衛『待賢門院璋子の生涯』。
 これによると、なんと璋子の生理日まで換算した結果、誕生した皇子・顕仁が
 夫の鳥羽ではなく、代父の白河の胤である
ことが立証されているのです!
 詳しくは同書に譲りますが、本当に事実であればすごい乱脈ですね……

 




 そうした噂は古くからのもので、鎌倉初期成立の『古事談』によると、問題の皇子・顕仁を、
 「父」の鳥羽は「叔父子」と呼んで嫌っていたとか。
 (お祖父さんの実子=鳥羽にとって叔父にあたるというわけ)

 この顕仁こそのちの崇徳天皇となる人で、保元の乱に敗れ悲運の人生をたどりますが、
 その悲運は生まれたころからの定めだったといえましょう……


 璋子はその後も次々と皇子女を生み(これらは鳥羽の子)、その中にのちに権勢を
 ほしいままにした保元の乱の勝者・後白河法皇もいるわけですが、彼女自身の栄光は、
 庇護者・白河法皇の死とともに鳥羽の寵愛を失い、消え去っていきました……

 晩年の璋子は法金剛院を建立して落飾、寂しい日々を過ごしたといいます。
 しかし臨終の際は鳥羽が駆け付け、その死を嘆いたとも伝えられています。享年45。



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