崇徳上皇歿す(1164年8月26日)
悲運の天皇が百人一首に残した優しい歌
保元の乱に敗れ、讃岐へ配流となり、その地で亡くなった崇徳上皇(46歳)。
乱から8年後のことでした。
その誕生から父・鳥羽法皇(天皇)との対立が運命づけられていたとも思われる、
悲運の貴人です。 関連記事:待賢門院璋子歿す
保元の乱が勃発したのは鳥羽の崩御後ほどなくのことでしたが、
その萌芽は生前の父との折り合いの悪さにすでにあったといえます。
死後、世の動乱が激しくなると、次第に“怨霊説”が囁かれるようになります。
それから現代にいたるまで、崇徳の怨霊イメージは拭い去られることはありません。
大河ドラマ『平清盛』での井浦新さんのあの姿を忘れられない人もいるのでは……
▲2012年NHK大河ドラマ『平清盛』より
しかし、藤原定家撰「小倉百人一首」には、「崇徳院」の優しい歌が収められていますね。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
訳:川瀬の流れが速いので、岩にせきとめられる急流が(二つの流れに)わかれても、
しまいにはまた一つ(の流れ)になるように、仲を裂かれて逢えずにいても、
ゆくゆくは(あなたと)逢おうと思う。
私事ですが、この歌は百人一首の中でもかなり早くに知った歌で、
その理由は、大和和紀の名作漫画『はいからさんが通る』で主人公「紅緒」のおじいさんと
婚約者「少尉」のおばあさんの過ぎ去った悲恋を象徴する歌だったからです。
大人になって、この歌を残した「崇徳院」という人物の激しい生涯を知った時は驚きました。
崇徳の生涯に、こんな優しい瞬間もあったのか。
それとも、この歌は恋ではなく別の想いを詠んだ歌なのか。
分かり合えなかった父への想いとか……
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