◆古典・水鏡◆第13回
歴史物語『水鏡』、姉ブログで神武~宣化天皇まで読んできました。
その続きの欽明天皇から読んでいます☆
+ + +
前回までのあらすじ
天智天皇の息子・大友皇子に勝利したのは弟の大海人皇子。
即位して天武天皇となり、天皇亡き後は皇后で天智天皇の娘の
持統天皇が位を継いだ。
+ + +
■43代 文武天皇
天武天皇の子・草壁皇太子の皇子。母は元明天皇。15歳で即位する。
+3年5月、大和の人・役行者を伊豆国へ流す。(役行者説話)
葛城山にこもり修行、鬼神を使った。融通の利かない一言主神を縛って
谷底へ投げたため、怒った神が帝の近侍の人に行者の謀反を伝えた。
空を飛び捕らえられない行者を、その母を捕らえることで降参させた。
+帝が夢の告げにより大鏡を仏前に掲げ、供養とした。
丈六仏を造ろうとした帝だがよい仏師が見つからず、自ら大安寺に祈った。
その折の夢告により、仏の前に鏡を掛けることで供養とした。
立派な信心であった。
+4年3月、道昭和尚、日本で初めての火葬。
入唐僧道昭の入寂における不思議な話(芳香が満ち、端座したまま絶命、
火葬した灰や骨は風に吹かれて消えてしまった)。
+5年、藤原不比等が一日のうちに中納言と大納言になった。
修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)にまつわる説話が大きく扱われる。
役小角伊豆配流の記事は、正史『続日本紀』にも出ている。
人々のうわさとして、鬼神を使う話が載っている。
僧道昭に関しては『続日本紀』により詳細な記事があり、不思議の内容は同じ。
藤原不比等が一日で中納言および大納言となった話は、
この年(文武5年=大宝元年)、官制の変更で中納言が廃止されたことによるか。
+再び役行者伝説。
伊豆より帰京、母とともに秘術を用いて渡唐した。
+釈奠が始まる。
+大宝に年号を定める。これより以後年号は途絶えることなく続く。
対馬より銀が献上されたことによる。
4年には大極殿西の楼上に見えた雲により「慶雲」と改元。
+皇子たちの馬に乗っての宮城出入りを禁ずる。
+追儺が始まる。
対馬から献上されたのは『続日本紀』ではこの時点では「金」と記録。
着々と国の威容や儀礼を整えていく様子が表されている。
文武天皇は軽皇子といい、天武天皇と皇后であった持統天皇の唯一の子・
草壁皇太子の遺児。祖母・持統天皇に護られ、15歳という当時では異例の若さで
位を譲り受けたが、25歳の若さで崩御してしまう。
大宝令が整い国が整備されていくさまを描写する一方で、『水鏡』作者の
役行者への関心の高さがうかがえる。
[参考文献]
・河北騰『水鏡全評釈』笠間書院、2011
・宇治谷孟『全現代語訳続日本紀(上)』講談社、1992
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天智天皇の息子・大友皇子に勝利したのは弟の大海人皇子。
即位して天武天皇となり、天皇亡き後は皇后で天智天皇の娘の
持統天皇が位を継いだ。
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■43代 文武天皇
天武天皇の子・草壁皇太子の皇子。母は元明天皇。15歳で即位する。
+3年5月、大和の人・役行者を伊豆国へ流す。(役行者説話)
葛城山にこもり修行、鬼神を使った。融通の利かない一言主神を縛って
谷底へ投げたため、怒った神が帝の近侍の人に行者の謀反を伝えた。
空を飛び捕らえられない行者を、その母を捕らえることで降参させた。
+帝が夢の告げにより大鏡を仏前に掲げ、供養とした。
丈六仏を造ろうとした帝だがよい仏師が見つからず、自ら大安寺に祈った。
その折の夢告により、仏の前に鏡を掛けることで供養とした。
立派な信心であった。
+4年3月、道昭和尚、日本で初めての火葬。
入唐僧道昭の入寂における不思議な話(芳香が満ち、端座したまま絶命、
火葬した灰や骨は風に吹かれて消えてしまった)。
+5年、藤原不比等が一日のうちに中納言と大納言になった。
修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)にまつわる説話が大きく扱われる。
役小角伊豆配流の記事は、正史『続日本紀』にも出ている。
人々のうわさとして、鬼神を使う話が載っている。
僧道昭に関しては『続日本紀』により詳細な記事があり、不思議の内容は同じ。
藤原不比等が一日で中納言および大納言となった話は、
この年(文武5年=大宝元年)、官制の変更で中納言が廃止されたことによるか。
+再び役行者伝説。
伊豆より帰京、母とともに秘術を用いて渡唐した。
+釈奠が始まる。
+大宝に年号を定める。これより以後年号は途絶えることなく続く。
対馬より銀が献上されたことによる。
4年には大極殿西の楼上に見えた雲により「慶雲」と改元。
+皇子たちの馬に乗っての宮城出入りを禁ずる。
+追儺が始まる。
対馬から献上されたのは『続日本紀』ではこの時点では「金」と記録。
着々と国の威容や儀礼を整えていく様子が表されている。
文武天皇は軽皇子といい、天武天皇と皇后であった持統天皇の唯一の子・
草壁皇太子の遺児。祖母・持統天皇に護られ、15歳という当時では異例の若さで
位を譲り受けたが、25歳の若さで崩御してしまう。
大宝令が整い国が整備されていくさまを描写する一方で、『水鏡』作者の
役行者への関心の高さがうかがえる。
[参考文献]
・河北騰『水鏡全評釈』笠間書院、2011
・宇治谷孟『全現代語訳続日本紀(上)』講談社、1992
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