◆藤原氏系図・4◆顕光編
藤原氏系図をランダムに作成しています。
系図に登場する人物や系図の背景なども、ご紹介していきます。
☆このシリーズの系図について☆ 頁の一番下をご覧ください
※原則として男女別に右から出生順。順が不明のものもあり。省略された人物もあり。
(クリックで大きくなります)
顕光編
藤原顕光(あきみつ、944-1021.5.25)。平安時代中期の公卿。
長く廟堂の上位を占め従一位左大臣にまで昇るが、権力者・道長はじめ周りから
無能者とされていた。実際、実務もおぼつかなく、朝廷の儀礼などで失態を繰り返した。
道長からは、困ったものだが毒にはならないと思われていたのではないか。
藤原兼通(925-977)の長男。兼通は顕光の異母弟・朝光(951-995)に期待をかけて
いたようで、父の生前・歿後とも出世レースで顕光は弟の後塵を拝していた。
顕光にとっては、この弟が流行り病で比較的若死にしたのは幸運だったともいえる。
対照的に78歳という長命を保った顕光。だが結果的に後継者には恵まれなかった。
❖顕光の男子
長男は重家(977-?)。
従四位下左近衛少将兼美作守。
母は村上天皇第5皇女・盛子内親王(更衣・源計子腹)。
顕光には更衣腹だが内親王が降嫁しており、1男2女を儲けたことが知られる。
顕光は内親王の歿後、いとこにあたる藤原遠量の娘(藤原道兼の未亡人)と
再婚していることが『栄花物語』巻5に見えるが、子はない。
▶ミニ系図(1)顕光と道兼未亡人
顕光期待の長男であった重家だが、驚いたことに長保3年(1001)、
親友の右近衛権中将兼備中守・源成信とともに、突如出家を遂げたのである。
成信はいわゆる村上源氏、村上天皇の第3皇子・致平親王の実子で、
あの藤原道長の猶子ともなっている貴公子だった。
二人は示し合わせて、すでに出家していた致平親王のいる三井寺で剃髪した。
二人の父(顕光と道長)はそれを知ると説得を試みたが、翻意させることはできなかった。
成信が23歳、重家が25歳という若さで、「照中将」「光少将」と並び称された逸材。
子福者の道長はともかく、顕光はさぞ失意に沈んだことであろう。
この出家にまつわる話は、『古事談』第一32、『続古事談』第二59に詳しい。
また、実際に当時の日記(藤原行成『権記』)の長保3年2月4日条にも、二人につき
「相共に夜行し、今に未だ帰り参らず。出家の疑ひ有り」と記録されている。
『尊卑分脈』によると、ほかに生母不明の皇慶がいる。東大寺僧か。
また、『尊卑分脈』前田本のみに記載のある顕忠なる男子(生母不明、「従五下因幡守」)
が、徳川家康の臣下として有名な本多氏の祖であるといわれている。
ただ、上述の『権記』同記事には「藤原朝臣重家、右大臣[顕光]唯一の子也」とあることから、
顕忠の記載は後世の竄入ではないかと思われる。
上述の通り、本多氏があまり評判のよいとはいえない顕光の子孫をあえて称するとしたら
その理由は不明なので、事実何か顕光の家系と関係があったのかもしれない。
❖顕光の女子
長女は元子(979?※1 -?)。母は盛子内親王、重家の同母妹。
一条天皇女御、従二位。
長徳2年(996)、前年に亡くなった権力者・藤原道隆の娘である中宮定子が勢力を失う
一条天皇の後宮に、藤原公季公季の娘・義子に遅れること数か月で入内した。
先に入内した義子は「弘徽殿女御」、元子は「承香殿女御」となった。
同4年懐妊の兆しがあったが子は生まれず、恥じて天皇の下へはほぼ戻らなかった。
異常出産の様子は『栄花物語』巻5に詳しく、「水のかぎりにてかく御腹のへりぬれば」と
あり、つまり水を生んだという。早期破水であろうか。
一条天皇崩御後、村上天皇の孫・源頼定と密通して顕光を激怒させたが結婚し、
『栄花物語』によれば、生まれた女子の一人は後朱雀天皇中宮・嫄子女王の御匣殿と
なっていることがわかる(『栄花物語』巻36)。
源頼定は色好みで知られ、一方では有能な官吏であった。
血筋をたどれば、村上天皇の孫という点では母が村上天皇皇女の元子と同じである。
また父・村上天皇第4皇子為平親王は中宮安子(藤原師輔長女)の所生であり、
母・源高明女は師輔女の所生であり、父方・母方ともに師輔が曽祖父となる。
元子にとっても、父顕光の祖父が師輔であるため、師輔は曽祖父にあたる。
▶ミニ系図(2)師輔と元子・源頼定
次女は延子(985?※1 -1019)。母は盛子内親王。
三条天皇の第1皇子敦明親王の妃。
敦明は、父の退位に伴い後一条天皇の皇太子となるが、翌長和6年(1017)、
道長の圧迫と懐柔により自ら皇太子を辞退、小一条院と尊号された人物。
延子は夫が皇太子となる前に結ばれていたが、廃太子となり准太上天皇の処遇を
受けた夫が道長の娘(寛子)を妃としたため、事実上奪われる形となった。
寛仁3年(1019)に急死、精神的な負担のためかもしれない。
敦明とのあいだの子は、『栄花物語』巻32によると「男二人、女一所」となっているので、
先に生まれた敦貞親王(第1子、1014年生)と敦昌親王(敦昌は『本朝皇胤紹運録』等では
藤原頼宗女の所生)、女子は栄子内親王とされている。
顕光自身は長生きで一応出世もしたが、後を継ぐ子孫に恵まれなかった。
不幸な死に方をした延子とともに、顕光は怨霊となったと当時の貴族社会で噂された。
[参考文献]
角田文衞『承香殿の女御』中公新書、1963年 ※1
『新編 日本古典文学全集31 栄花物語①③』小学館、1995/98年
『新注 古事談』笠間書院、2010年
『続古事談 改訂版』おうふう、2006年
☆ ☆ ☆
☆このシリーズの系図について☆
参考文献は以下のとおり。
作成方法など詳細は、「作成につき」の頁をご覧ください。
・『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男監修、講談社、2003年) ・『国史大辞典』(吉川弘文館)ほか日本史辞典類
・史料『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』『群書類従 系譜部』『続群書類従 系図部』『公卿補任』、六国史
・適宜、先行研究書籍
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※原則として男女別に右から出生順。順が不明のものもあり。省略された人物もあり。
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顕光編
藤原顕光(あきみつ、944-1021.5.25)。平安時代中期の公卿。
長く廟堂の上位を占め従一位左大臣にまで昇るが、権力者・道長はじめ周りから
無能者とされていた。実際、実務もおぼつかなく、朝廷の儀礼などで失態を繰り返した。
道長からは、困ったものだが毒にはならないと思われていたのではないか。
藤原兼通(925-977)の長男。兼通は顕光の異母弟・朝光(951-995)に期待をかけて
いたようで、父の生前・歿後とも出世レースで顕光は弟の後塵を拝していた。
顕光にとっては、この弟が流行り病で比較的若死にしたのは幸運だったともいえる。
対照的に78歳という長命を保った顕光。だが結果的に後継者には恵まれなかった。
❖顕光の男子
長男は重家(977-?)。
従四位下左近衛少将兼美作守。
母は村上天皇第5皇女・盛子内親王(更衣・源計子腹)。
顕光には更衣腹だが内親王が降嫁しており、1男2女を儲けたことが知られる。
顕光は内親王の歿後、いとこにあたる藤原遠量の娘(藤原道兼の未亡人)と
再婚していることが『栄花物語』巻5に見えるが、子はない。
▶ミニ系図(1)顕光と道兼未亡人
顕光期待の長男であった重家だが、驚いたことに長保3年(1001)、
親友の右近衛権中将兼備中守・源成信とともに、突如出家を遂げたのである。
成信はいわゆる村上源氏、村上天皇の第3皇子・致平親王の実子で、
あの藤原道長の猶子ともなっている貴公子だった。
二人は示し合わせて、すでに出家していた致平親王のいる三井寺で剃髪した。
二人の父(顕光と道長)はそれを知ると説得を試みたが、翻意させることはできなかった。
成信が23歳、重家が25歳という若さで、「照中将」「光少将」と並び称された逸材。
子福者の道長はともかく、顕光はさぞ失意に沈んだことであろう。
この出家にまつわる話は、『古事談』第一32、『続古事談』第二59に詳しい。
また、実際に当時の日記(藤原行成『権記』)の長保3年2月4日条にも、二人につき
「相共に夜行し、今に未だ帰り参らず。出家の疑ひ有り」と記録されている。
『尊卑分脈』によると、ほかに生母不明の皇慶がいる。東大寺僧か。
また、『尊卑分脈』前田本のみに記載のある顕忠なる男子(生母不明、「従五下因幡守」)
が、徳川家康の臣下として有名な本多氏の祖であるといわれている。
ただ、上述の『権記』同記事には「藤原朝臣重家、右大臣[顕光]唯一の子也」とあることから、
顕忠の記載は後世の竄入ではないかと思われる。
上述の通り、本多氏があまり評判のよいとはいえない顕光の子孫をあえて称するとしたら
その理由は不明なので、事実何か顕光の家系と関係があったのかもしれない。
❖顕光の女子
長女は元子(979?※1 -?)。母は盛子内親王、重家の同母妹。
一条天皇女御、従二位。
長徳2年(996)、前年に亡くなった権力者・藤原道隆の娘である中宮定子が勢力を失う
一条天皇の後宮に、藤原公季公季の娘・義子に遅れること数か月で入内した。
先に入内した義子は「弘徽殿女御」、元子は「承香殿女御」となった。
同4年懐妊の兆しがあったが子は生まれず、恥じて天皇の下へはほぼ戻らなかった。
異常出産の様子は『栄花物語』巻5に詳しく、「水のかぎりにてかく御腹のへりぬれば」と
あり、つまり水を生んだという。早期破水であろうか。
一条天皇崩御後、村上天皇の孫・源頼定と密通して顕光を激怒させたが結婚し、
『栄花物語』によれば、生まれた女子の一人は後朱雀天皇中宮・嫄子女王の御匣殿と
なっていることがわかる(『栄花物語』巻36)。
源頼定は色好みで知られ、一方では有能な官吏であった。
血筋をたどれば、村上天皇の孫という点では母が村上天皇皇女の元子と同じである。
また父・村上天皇第4皇子為平親王は中宮安子(藤原師輔長女)の所生であり、
母・源高明女は師輔女の所生であり、父方・母方ともに師輔が曽祖父となる。
元子にとっても、父顕光の祖父が師輔であるため、師輔は曽祖父にあたる。
▶ミニ系図(2)師輔と元子・源頼定
次女は延子(985?※1 -1019)。母は盛子内親王。
三条天皇の第1皇子敦明親王の妃。
敦明は、父の退位に伴い後一条天皇の皇太子となるが、翌長和6年(1017)、
道長の圧迫と懐柔により自ら皇太子を辞退、小一条院と尊号された人物。
延子は夫が皇太子となる前に結ばれていたが、廃太子となり准太上天皇の処遇を
受けた夫が道長の娘(寛子)を妃としたため、事実上奪われる形となった。
寛仁3年(1019)に急死、精神的な負担のためかもしれない。
敦明とのあいだの子は、『栄花物語』巻32によると「男二人、女一所」となっているので、
先に生まれた敦貞親王(第1子、1014年生)と敦昌親王(敦昌は『本朝皇胤紹運録』等では
藤原頼宗女の所生)、女子は栄子内親王とされている。
顕光自身は長生きで一応出世もしたが、後を継ぐ子孫に恵まれなかった。
不幸な死に方をした延子とともに、顕光は怨霊となったと当時の貴族社会で噂された。
[参考文献]
角田文衞『承香殿の女御』中公新書、1963年 ※1
『新編 日本古典文学全集31 栄花物語①③』小学館、1995/98年
『新注 古事談』笠間書院、2010年
『続古事談 改訂版』おうふう、2006年
☆ ☆ ☆
☆このシリーズの系図について☆
参考文献は以下のとおり。
作成方法など詳細は、「作成につき」の頁をご覧ください。
・『日本史諸家系図人名辞典』(小和田哲男監修、講談社、2003年) ・『国史大辞典』(吉川弘文館)ほか日本史辞典類
・史料『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』『群書類従 系譜部』『続群書類従 系図部』『公卿補任』、六国史
・適宜、先行研究書籍
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