斎王、特に賀茂斎院について
イメージを膨らませてくれる賀茂祭=「葵祭」について
「斎王」とは、かつて伊勢神宮もしくは賀茂神社で天皇に代わり神事に奉仕した、
特に選ばれた未婚の内親王または女王のことです。
現代では存在しませんが、時代行列などでその姿をイメージすることはできます。
伊勢神宮のある三重県明和町の「斎王まつり」や京都市の「斎宮行列」などがあります。
最も有名かつ歴史あるものが、京都三大祭りといわれる「葵祭」でしょう。
賀茂祭、つまり伊勢の斎王ではなく、賀茂社に仕える斎王が関係する祭です。
とはいえ、先にも触れた通り、現代では「斎王」という存在はありませんから、
行列などで見られるお姫様のことは「斎王代」と呼んでいます。
葵祭の「斎王代」には、京都に地盤を持ち行列の費用も負担できる、良家の真正お嬢様が
選ばれるそうです。母娘や叔母姪など一族で選ばれ続ける場合も多いのだとか
ちなみにいうと。。。
現在の祭の華である行列は、「本列」と「斎王代列」に大別されます。
「本列」は、かつて四位近衛中将がつとめた「勅使」の行列です。
あの『源氏物語』の“車争い”で有名な賀茂祭の行列では、光源氏が華やかな勅使でした。
現在では、本物の勅使は行列に加わっていないため、「近衛使代」が本列の中心です。
さて、話を斎王に戻して、今回は伊勢ではなく賀茂の斎王※について、少々見ていきたいと
思います。 ※この施設・場所のことを「斎院」というが、賀茂の斎王本人を指しても「斎院」と呼ぶ
賀茂斎院の始まり~有智子内親王
桓武天皇の子・嵯峨天皇が世を治めていた時代、実兄の平城太上天皇との対立から
いわゆる「薬子の変」が勃発すると、動乱のさなか、天皇は賀茂大神に神助を祈って、
「無事鎮定されれば、皇女を捧げて奉仕させましょう」と誓ったといわれます。
その結果、斎王に選ばれたのが、嵯峨天皇の娘・有智子(うちこ)内親王でした。
時期は、この年のこと(810年)とも8年後の弘仁9年ともいわれていますが、
前者であれば有智子は数えで4歳、後者でも12歳の幼さでありました。
賀茂は洛外とはいえ、遠い伊勢に比べ中央の貴族たちにとって手近な場所にあります。
紫野院といわれた斎院の場所は確定はされていないそうですが、一説によると、
現在の京都市上京区社横町「櫟谷七野春日神社」付近とされ、碑も建てられています。
=この史跡についての詳細は過去記事へ=
都から近いためか、斎院には女王は少なくほぼ内親王がつとめました。
比較的手近ですが宮中の賑わいからは隔離された閑静で風雅な拠点として、
斎院は都人の関心を惹き、文化的サロンをなしていきました。
また、賀茂の斎王は、伊勢とはちがい天皇の代替わりごとに交替したわけではなく、
つとめがかなりの長期間にわたった斎王も存在しました。
3人の賀茂斎内親王~有智子、選子、式子
賀茂斎王は、嵯峨・淳和天皇時代の有智子内親王に始まり、土御門・順徳天皇時代の
礼子内親王(後鳥羽天皇内親王)まで、32代の天皇・約400年のあいだに35人。
なかでも個人的に気になる斎王さまを、3人とりあげてみたいと思います。
有智子内親王(807-847)初代/うちこ
嵯峨天皇第8皇女、父が皇太弟であったころの生まれ、母は交野女王。
賀茂斎院が文化的サロンを形成した嚆矢となった、女流漢詩人でその豊饒な才能を
父にも鍾愛され、「経国集」ほかに10首の漢詩が現在に伝わっている。
病により退下するまで21年4か月在任した(弘仁元年就任の場合)。
退下後は、嵯峨で静かな隠棲生活をまっとうしたと思われる。
=詳細は過去記事へ=
選子内親王(964-1035)16代/せんし(のぶこ)
村上天皇第10皇女。
生後5日で、権勢を振るっていた生母・中宮藤原安子は産褥死してしまう。
円融・花山・一条・三条・後一条と、なんと5代56年4か月という最長の在任記録。
次点が醍醐天皇皇女の婉子の35年6か月であり、群を抜く長さである。
これは卜定された時期が12歳と幼かったにも関わらず、両親がすでに亡くなっており
その死の穢れもなかったというのも一因だろう。
世の中からは「大斎院(おおさいいん)」と呼ばれ、尊崇を集めた。
選子のころは摂関家隆盛の時期にあたり、選子および奉仕する女房らの公卿たちとの
交流の様子や、彼女らの才能と活動が中宮定子や彰子の周辺にも影響していたことが、
家集『大斎院前御集』『大斎院御集』や『枕草子』『紫式部日記』からも知られる。
辛辣な紫式部が斎院方の女房を批判した『紫式部日記』のくだりの中にも、
「院 [選子] はいと御心のゆゑおはして、所のさまはいと世離れ、神さびたり」
と、選子個人の風流については称賛しているという。
大斎院選子は興味深いことに、次第に仏教に傾倒し、和歌によって仏に結縁しようと
『発心和歌集』を著している。神に仕えることと仏教への帰依は相容れないことで、
選子は苦悩していたのであろう。
万寿3年(1026)に国母である藤原彰子が出家したとき、
君すらもまことの道に入りぬなり一人や長き闇にまどはむ (『後拾遺和歌集』巻17)
と詠んでおり、仏道に専念できないわが身を嘆いている。
その5年後の長元4年(1031)、68歳で老病を理由として退下を望み、関白藤原頼通の
慰留を振り切ってひそかに斎院を出て出家。貴族社会を慌てさせた(藤原実資の日記
『小右記』にも記載があるという)が、みな仕方ないことと同情を寄せたという。
残り4年の人生は仏法三昧の生活だったであろう。72歳で歿した。
式子内親王(1149-1201)31代/しきし・しょくし(のりこ)
後白河天皇第3皇女、母は藤原成子で、以仁王は同母弟。
二条天皇治下、平治の乱が勃発した年に斎王となり(数えで11歳)、以来病により
退下するまで9年10か月の任をつとめた(二条・六条・高倉天皇治世)。
小倉百人一首の歌がよく知られるように、当代随一の女流歌人であった。
退下後は呪詛事件に巻き込まれるなど不遇な面もあったが、情熱を秘めた歌は当時も、
また後世においても高い評価を受けた。
=式子内親王についてはたとえばこちらを参照=
* * *
選子内親王の話を中心にお届けしました。有智子内親王・式子内親王については、
過去にもいくつか記事があるので、ご興味ある方はご覧いただければ幸いです。
具体的に3人の賀茂斎王さまを挙げてみました。
現代まで受け継がれた葵祭
祭が国家的行事として正式に始まったのは、弘仁10年(819)のこと。以来、
①応仁の乱(1467-77)ののち元禄6年(1693)まで約200年間
②明治4年(1871)から16年(1883)まで
③昭和18年(1943)から27年(1952)まで
以上の中断や行列の中止があったそうですが、王朝の伝統は守られてきました。
現在呼びならわされている「葵祭」の名は江戸時代、①を経た再開後。
現在の「斎王代行列」がはじまったのは③よりあと、戦後です。
本物の斎王さまは現代にはいませんが、美しい「斎王代」さまを拝めるのは
また素敵なことですね 祭は5月15日、雨天順延。
2015年、京都・時雨殿にて。斎王代を経験されたご令嬢の十二単姿。
[主要参考文献]
京都市観光協会「葵祭」ホームページ
『日本古典文学大辞典 簡約版』岩波書店、1986年
岩佐美代子『内親王ものがたり』岩波書店、2003年
服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館、2002年
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