◆漢文史料◆空海、酒人内親王

 空海が代作した酒人内親王の遺言


 空海『遍照発揮性霊集』巻第四所収

 昨年末にようやく読めた絶版小説、『美貌の斎王 桓武妃酒人内親王』の終盤に
 少々触れられていた、<内親王の遺言>を確認してみました。
 
 美貌の斎王
 ▲藻里良子『美貌の斎王 桓武妃酒人内親王』文芸社、2002年

 小説と酒人内親王については過去記事を
 美貌の斎王(小説・酒人内親王)


 酒人内親王の遺言は、空海が代作しており、空海の漢文集『遍照発揮性霊集』の
 巻四に「為酒人内公主遺言」として収録されています。



   吾告式部卿、大蔵卿、安勅三箇親王也。夫道本虚無。無終無始。
   陰陽気搆、尤霊則起。起也名生、帰之称死。死生之分、物大帰矣。


  私、酒人内親王は、式部卿・大蔵卿・安勅の三人の親王方に遺言申し告げます。
  そもそも天の道はもともと虚無なのです。終わりもなく始めもない。
  陰陽の気が合わさってもっとも霊的なもの即ち人間が起きてくる。
  この起きてくることを生、帰ることを死と呼んでいます。
  生死の分れ目は、万物の帰するところにあるかどうかだけなのです。


   吾齢従心、気力倶尽。況復四蛇、相闘於身府、両鼠争伐於命藤。
   既知夢蝶之非我、還驚谷神乃勿休。


  私は齢従心(70歳)、気力ともに尽きた。ましてや私を構成している
  四つの力(地・水・火・風)は、私の身体の中で闘いあい、
  二匹の鼠が藤の綱を噛み切りあうような様子なのです。
  荘子が夢に蝶となった故事は知っていましたが、
  わが身におよび魂のはたらきが休止しようとは驚きです。


   又夫提挈者親、追遠者子。
   吾有一箇瓊枝、不幸先露。顧此悢悢、無人顧命。
   猶子之義、礼家所貴。所以取三箇親王、以為男女、慎終之道、一任三子。


  また、子を助け育てるものは親であり、先祖を長く追慕するのは子です。
  私にも一人の子がありましたが、不幸にも私より先に露となりました(亡くなった)。
  いまこれを顧みれば心の痛むことこのうえない、後事を託す子もいないのです。
  「猶子」のことは、儒教の礼家の尊ぶところです。
  ゆえに私は三人の親王・内親王を亡くした子に代わる三人の男女とし、
  私の死を慎む道を、この三人に任せるのです。


   吾百年之後、不願荼毘、封之墳穸、任之自化。明器雑物、一従省約。
   此吾之願也。追福之斎、存日修了。若事不得已者、於春日院転七七経。
   周忌則東大寺。


  私は死後荼毘に付されることは望んでいません。体は塚穴に土葬とし、
  自然に帰るに任せてほしい。葬具や副葬品もどうか簡略にしてください。
  これが私の願いです。追善供養の斎も存世中に済んでいます。
  もしやむを得ず行う場合は、興福寺で七七日忌の経をあげてください。
  一周忌の法要は東大寺にて開いてください。


   所有田宅林牧等類、班充三箇親王、及眷僧仁主。
   自外随労、分給家司僕孺等而已。亡姑告。


  私の所有する田地・家宅・林野・牧場などの類は、三人の親王と、
  縁の深かった僧侶・仁主に分け与えます。残りはそれぞれの骨折りに応じ
  家司・家僕・童孺たちに分け与えてください。亡き姑の遺言です。

            参考:『弘法大師空海全集』第6巻、筑摩書房、昭和59年



 酒人内親王(さかひとないしんのう、754-829)は光仁天皇皇女。
 母は聖武天皇皇女の井上内親王。76歳の高齢で薨去しています。
 異母兄の桓武天皇の妃として朝原内親王の一女をもうけますが、先立たれました。
 遺言の中に出てくる亡くなった子供とは、朝原内親王のことです。

 遺言は弘仁14年(823)酒人内親王が70歳を迎えた年の正月20日の日付です。

 遺言をおくられている三人の親王・内親王ですが、具体的に固有名の挙がっている
 安勅内親王(あてないしんのう、?-855)以外は、個人名が特定できていません。

 「猶子」は礼記において兄弟の子(甥・姪)を指す言葉です。
 酒人には同母のきょうだいは残されておらず(甥・姪もない)、
 異母兄であり夫でもある桓武天皇の皇子女かと推測されます。
 亡くなった朝原内親王にとっては異母きょうだいにあたる人たちとなります。
 安勅内親王は桓武天皇皇女、生母は宮人・従四位下藤原河子(京家・大継の娘)。

 また、僧侶名「仁主」についても不詳です。
 酒人内親王は東大寺の万灯会を催したことで有名で、同寺への荘園施入の記録も
 残っています。空海との交流もあったということですね。

 『日本紀略』には驕りたかぶり奔放と評されてしまった内親王ですが、
 弔いを簡素にすることを繰り返し訴えていること、周囲への気遣いが感じられること、
 たったひとりの娘を失った悲しみ(朝原内親王は弘仁8年薨去、享年39)などが、
 この空海代作の遺言からはうかがえました。




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