名所「名古曽の滝」跡
藤原公任の歌で名高い京都・大覚寺内の史跡
滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ
大納言公任
藤原定家撰・小倉百人一首55番、文化のカリスマこと藤原公任の歌です。
訳:(水が涸れて)滝の音はすっかり聞こえなくなって長い年月がたってしまったが、
その評判は(世の中に)流れ伝わって、今でも知れ渡っていることだ。
<「音」「絶え」「流れ」「聞こえ」はすべて「滝」の縁語>
メモ:藤原公任(きんとう、966-1041)は平安中期の歌人。
諸芸に通じ、詩(漢詩)・歌(和歌)・管弦の「三舟の才」をうたわれた。
故実にもくわしく、当時より尊ばれた文人・官人。
この、当時すでに有名だった“涸れてしまった名滝”が、大覚寺境内の「名古曽の滝」です。
名古曽の滝跡案内
平安初期の嵯峨天皇が設けた離宮が、大覚寺の前身です。
この嵯峨院はのちの貞観18年(876)、嵯峨の娘である正子内親王(淳和天皇皇后)
によりその子恒寂入道親王(恒貞親王)を開山に、大覚寺として開創されました。
☆参考☆大覚寺周辺にある、嵯峨天皇陵と正子・恒貞陵墓
創建当時の建物は残存していませんが、東側の「大沢池」が嵯峨天皇当時の痕跡です。
中国の洞庭湖を模して造られたという、周囲約1kmの人工池です(日本最古の人工林泉)。
▲大沢池と名花「嵯峨菊」
当時は池の北東約100m地点に人工の滝が組まれて流れており(名古曽滝跡の石組)、
蛇行しながら池まで遣水が続いていた様子が、発掘調査から判明しています。
宸殿などを拝観し、朱色の目立つ心経宝塔のそばを通り、さらに奥へ……
この奥に、名古曽の滝跡のある広場があります。
名古曽の滝跡の碑は二か所。
広場の入口に近いところに一か所(下写真)と、奥の石組の傍(冒頭写真)。
※いずれも光で文字が飛んでしまいすみません。この右奥に石組が。
しかし平安中期の公任のころには滝の水も涸れていたということですね。
鎌倉時代に入り大覚寺統の後宇多法皇が大覚寺に住し(大覚寺統の名の由来)、同寺の
再興に尽力、名古曽の滝や遣水も一部改修整備されましたが、再び埋もれてしまいました。
▲詳細の説明板(読みたい方は拡大してご覧ください)
現在は発掘調査に基づいて、平安の遣水・中世の遣水が復元整備されています。
わかりにくい写真しか撮れず、重ね重ねスミマセン……
ちなみに現在も、残念ながら滝は流れていません。
なお「名古曽の滝」の呼称も、公任の歌から採られていることは明白で、
従って当時からの呼称ではありません。
嵯峨天皇気分は味わえませんが、滝が涸れていて公任気分は味わえるかも
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