◆史跡案内◆京都

 藤原百川公墓


 奈良末期の「一大策略家」藤原百川、ここに眠る


 藤原百川(ももかわ)は、藤原四子のひとり宇合(うまかい)の8男で、奈良時代末期の人。
 光仁天皇やのちに桓武天皇となるその子・山部王(親王)の信頼を受けました。
 父子の前代の称徳女帝時代から信任され、活躍を始めた様子が史料に伺えます。

 女帝が崩御したあと、山部王の将来的な即位を見据えて父の光仁天皇を
 即位させるため暗躍、さらに光仁天皇の皇后・井上内親王と皇太子であった
 内親王所生の他戸親王を排除、桓武天皇誕生の道を開いた――
 とされ、「一大策略家」と語られることが多いです。

 顕著なのは歴史物語の『水鏡』で、百川の活躍を徹底的に称賛しています。
 現在は散逸していますが『水鏡』成立当時には「藤原百川物語」という作品が
 あったそうです。 [河北騰『水鏡全評釈』笠間書院、2011年]

 活躍の程度や真偽はともかく、即位が実現したときにはすでに歿していた
 百川に対し、桓武天皇が感謝の思いを抱いていたことは確かで、
 百川の嫡子・緒嗣へ厚遇を与え、娘・旅子を自らの許へ入内させています。


 その藤原百川の墓とされる場所へ訪れてきました。

 百川墓1

 

 木津川近郊の住宅街にある小さな公園

 最寄りは山田川駅、京都~奈良(大和西大寺)間を走る近鉄京都線。隣の高の原駅は
 奈良県に入りますので、京都の南端にあたります。京都よりも平城京にほど近い地点。

 山田川駅
 墓所は、駅から徒歩約10分でした(最下部の地図参照)。

 


 百川墓2
 閑静な住宅街の中に、立派に区画されていました。


 百川墓3
 中は広くはありませんが緑豊かな公園のように整備されており、ブランコも見えました。
 立派な碑の後ろが小塚になっています。

 ちなみに上の写真の入口が後方に写っています。


 百川墓4
 反対側には(というか車通りに面しているこちらが正式な入口?)、
 なんと鳥居が作られていました!

 思いのほか大切に扱われているのですね。ちょっと胸が熱くなりました
 

 藤原百川公墓のある南山背とは

 藤原百川の墓について、『日本後紀』延暦16年(797)2月1日条に記録があります。

  賜山城国相樂郡田二町六段爲贈右大臣從二位藤原朝臣百川墓地

 山背国相楽郡に地を賜い百川の墓地としたとする記事ですが、
 百川の歿した宝亀10年(779)から20年弱が経過しています。
 それまで百川の墓がどこにあったのか分かっていませんが、
 このときにここ相楽の地へ改葬したと考えられています。

 ところで、京都~奈良間を電車で走るとき地図を見ると、橘諸兄(たちばなのもろえ)
 墓があります。 (地図★印は百川の墓)

 井出


 この辺り南山背の地は、聖武天皇の時代に諸兄の主導で恭仁京が置かれるなど、
 橘氏(およびそれに連なる県犬養氏)の勢力圏であったことが知られます。

 百川の甥にあたりのちに長岡遷都などで活躍する藤原種継が、長く山背守を
 つとめるなど、橘氏の勢力圏に藤原式家が力を伸ばしたことが伺えます。
 [この章参照:木本好信『藤原種継 都を長岡に遷さむとす』ミネルヴァ書房、2015年]







゚・:,。゚・:,。★ ↓↓↓ 古代史推進のために! クリックしていただけるととても嬉しいです゚・:,。゚・:,。☆
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

日本史 ブログランキングへ