史跡・難波宮~難波宮跡公園/AR難波宮
難波宮跡を楽しむ「AR難波宮」を中心にご紹介
古代の都/副都・難波宮。
乙巳の変のあと、孝徳天皇の時代に営まれた前期難波宮と、
奈良時代の聖武天皇がその跡地に復興した後期難波宮に分けられます。
(詳しくは前回記事参照)
現在、宮跡地の中心部分は難波宮跡公園として整備・保存されています。
道を挟んで北は大阪城と宮遺跡の一部が保存されている大阪歴史博物館。
難波宮跡公園と大阪歴史博物館付近で楽しめる、スマートフォンやタブレット用の
ARアプリがあります。=AR難波宮
▲「AR難波宮」(スタート画面)
今回は、こちらのアプリを中心に難波宮を見ていきます。
市民の憩いの場、難波宮跡公園
大阪城と大きな通りのすぐそばにあるだだっ広い公園です。
「だだっ広い」と感じるのは、何もないから
ただ、市民の憩いの場として機能しているようで、スポーツや幼稚園児(?)
がいっぱいのイベントとか、午前中から盛んにおこなわれていました!
そんな中、スマホで一人AR……暗いな
(ARは誰かと一緒に使用するともっと面白いツールだと思います!)
▲難波宮跡公園で楽しむモードの説明画面
左上地図の円内でアプリを起動すると、各建物のCG(AR、VR)が画面上に出現。
もちろんスクリーンショットで写真に収めることもできます。
連れがいれば、自分を入れた写真を撮影もでき、なお楽しいです
(GPS機能で自分の居場所は画面に表示されますから、
それに従って動いていきます。周囲に注意してくださいね!)
例えば、「大極殿」が登場です
解説を見ることもできるのね。
「中に入る」をタップすると、こんな画面が現れます。
また、所定の場所に移動してスタート画面にある「偉人カメラ」をタップすると、
難波宮ゆかりの偉人も現れます!
大極殿近くには「聖武天皇」がおわすこと判明
前期難波宮と後期難波宮について
ところで、前期難波宮と後期難波宮について整理します。
遺跡の場所は、ほぼ重なっています。
▲大阪歴史博物館の説明パネル。赤が前期、青が後期の遺跡。
難波宮跡公園を飛び出して道を挟んだ北は大阪城の南端、
北西の2つの建物は手前から大阪歴史博物館・NHK大阪。
【前期難波宮】
・掘立柱建築、板葺もしくは茅葺
・内裏の東西に特徴的な八角殿
左遠方に、内裏南門の左右にある特徴的な「八角殿」。用途は不明です。
前期の中心的な建物は「内裏前殿」で、のちに藤原宮に出現する「大極殿」の
前身といえる、内裏の正殿です。内裏後殿と初めて分離しました。
【後期難波宮】
・礎石と瓦葺(内裏周辺は掘立柱・板葺、茅葺)
・「大極殿」の出現
こちらは朝堂院南門、瓦葺で立派です!
後期の中心となる建物は、藤原宮・平城宮と同じ正殿である大極殿ですが、
平城宮が同時に存在する以上、当時「大極殿」と称したかは不明です。
ARから離れリアルの公園では、この大極殿跡は一段高く表されています。
▲向う側手前の曲線の建物が大阪歴史博物館。
▲壇上では礎石の位置を再現。
再び大阪歴史博物館へ行き、ARを楽しむ
前回記事でご紹介した、ほど近くにある大阪歴史博物館へ戻りましょう。
博物館の建物内外にも、ARスポットが存在します(アプリ画面より、「マ」印)。
上に載せた遺跡位置のパネルを見ると、博物館は前期難波宮「内裏西方官衙」があった場所。
前回ご紹介した、床のガラス越しに見られる柱穴跡や、建物内外にデザインされた
柱の位置を示す赤い円、ガイドツアーで見られる地下遺跡は、前期の官衙にあたるのです。
1階のARスポットでは、官衙の遺跡のCGを見ることができます。
常設展示古代史エリア10階のスポットは、眼下に見下ろす難波宮跡公園と
リンクしたARポイントになっています。
▲10階より。CGの下に写っているのが実景。
さきほど登った難波宮跡公園の大極殿跡が右端中央に見えます。
すごい!!
前回ご紹介した展示室が暗くなる時間帯に撮影すると……
背景が黒くなってこれも見やすい
画面内「!」のマークは、タップすると該当の建物を詳しく見ることができます。
(「!」の有無は明るさには無関係。操作で「!」は消すこともできる)
例えば、上写真の大極殿を示す「!」をタップしてみましょうか。
なんと、回転させることもできます。左右だけでなく上下にも傾けられます!
ああ、高御座が見えるというのに! なにこの背徳感……
こちらは前期難波宮の中心、「内裏前殿」です。
なお、歴史館前広場にもARスポットがあり、こちらは5世紀(古墳時代)の遺跡・
法円坂倉庫群となっています。難波宮ができる前から栄えていた地域でした。
復元倉庫もあって、時間限定で内部公開もしています☆
難波宮のその後~長岡宮へ
聖武天皇によって再興され、一時は副都にとどまらず首都にもなった難波宮
でしたが(744年)、すぐに都は紫香楽へ、そして平城へと戻ります。
そして桓武天皇の時代、都は平城から長岡へと移ります(784年)。
正史には記録されていませんが、難波宮の主要殿舎は解体・移築されました。
長岡宮に多い特徴的な重圏文の瓦も、後期難波宮からの流用が判明しています。
▲大阪歴史博物館にあったパンフレットの表紙
重圏文(=同心円)の瓦、なんとも可愛らしいですよね~
今回、「AR難波宮」を中心に難波宮をご紹介しましたが、姉妹版のARに
「AR長岡宮」があります。ゆかりの深い二つの宮で、現代、姉妹版のARアプリが
楽しめるということが、なんだかとても不思議な感じがします。
【参考文献】
積山洋『シリーズ「遺跡を学ぶ」095 東アジアに開かれた古代王宮 難波宮』新泉社、2014年
パンフレット「難波宮 都市に埋もれた幻の古代宮殿」大阪市博物館協会大阪文化財研究所
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