悲劇の伊勢斎王・済子女王


 史上唯一「事故」により退下した斎王

 永観2年(984)8月、円融天皇譲位により規子内親王(村上天皇皇女)が退下したあと、
 同年11月、花山天皇即位に伴う伊勢斎王として済子女王が卜定されました。

 長きにわたる潔斎や儀式を経ていずれは伊勢へ下向する斎王ですが、結局済子が
 伊勢へ赴くことはありませんでした。彼女は「密通」により解任されてしまったのです。

 密通や本人の過失による事故を理由に退下した斎王(伊勢斎宮および賀茂斎院)
 伝承の時代を除けばこの済子女王ただ一人です

 今回はこの不遇の斎王について少し書き留めておきたいと思います。

 斎王代1
 ▲京都・嵐山時代やさんの「斎王代」

 選ばれた皇族女性・斎王が伊勢へ下るまで

 皇族の中から占いで選ばれた女性が、伊勢へ派遣され、伊勢神宮に仕えた斎王制度。
 皇族女性とは、未婚の内親王、適任者がなければ未婚の女王をさします。
 解任は、原則として今上の譲位か崩御、もしくは父母の死去の場合のみでした。
 ほかには本人の病や死去というケースもあります。

 10世紀の『延喜式』中の「斎宮式」によれば、新天皇の即位に伴い選ばれた斎王は、
 のちに平安宮の中に用意された一室「初斎院」へ移ります。
 翌秋に京外の仮設の宮殿「野宮」に移り一年を過ごし、翌年の秋(伊勢神宮で9月に
 行われる「神嘗祭」に合わせ)、伊勢へ群行することになっていました。

 ただ、これだけ長い潔斎期間(規定によれば2年間以上となる)がありましたから、
 歴代斎王のうち、伊勢へ群行する前に役目を終える者も少なくはありませんでした。
 また、実際の初斎院→野宮→群行の期間も、必ずしも理想どおりとは限りませんでした。

 済子女王とは? 姉の隆子女王も伊勢斎王

 済子(なりこ)女王生没年未詳。父は醍醐天皇皇子の章明親王

 章明親王は『大和物語』には色好みとして登場し、『本朝文粋』では風雅の宮とされ、
 『蜻蛉日記』には藤原兼家夫妻と親しい間柄として登場しています。
 あの源高明の異母弟にあたり、母は“堤中納言”といわれた藤原兼輔の娘。

 済子の母は藤原氏で、先々代の伊勢斎王・隆子女王の同母妹と思われます。
 章明親王の家は、二人もの伊勢斎王を出しているのです。
 しかも隆子は赴任先の伊勢で亡くなった初めての斎王という不幸な例でした。

 伊勢という都から離れた土地へ行くためか、伊勢斎王は賀茂の斎王に比べて
 内親王の比率が低いのがひとつの特徴で、姉妹もまた女王の身分でした。
 つまり弱者の娘という面もあるかもしれません。

 さきほど潔斎期間の長さについて触れましたが、理由は不明ながら隆子・済子とも
 初斎院から野宮入りまでが22日間・24日間と異常に短いことも気になります。

 済子女王の斎王解任劇~密通? 陰謀?

 永観2年(984)11月4日に卜定された済子女王は、翌寛和元年(985)9月2日に初斎院、
 同年9月26日に野宮入り(初斎院よりわずか24日)しました。
 同日の『日本紀略』には「野宮雖未造畢」と、まだ野宮が完成していない旨が記されています。
 しかし、「依不可過今月」今月を過ぎるわけにはいかない、というのです。

 ところが翌寛和2年9月の伊勢群行を迎える直前の同6月、突然の退下となっています。
 京外の野宮にて、滝口の武士・平致光と「密通」したという「風聞」があったというのです!


  ・『日本紀略』
  「寛和二年、六月十九日丙辰。伊勢斎王済子於野宮与滝口武者平致光密通之由風聞。」
  ・『本朝世紀』同日条
  「伊勢初斎宮を警御す。滝口平致光を差し遣はさる。密かに斎女王を突けりと云々」
  ・『十訓抄』五ノ十
  「寛和の斎宮、野宮におはしけるに、公役滝口平致光とかやいひけるものに名立ち給ひて(…)」


 この突如沸き起こった“斎王密通”(風聞)への対応に朝廷が追われていたころ――

 わずか4日後の6月23日、花山天皇が突然の出奔・落飾の果てに退位しています。

 花山天皇の退位は、『大鏡』が述べるように、藤原兼家・道兼父子らによる陰謀ではないか
 と推測されていますが、いい加減な「風聞」を揉み消しもせず採り上げた済子女王の醜聞も、
 あるいは隠された目的花山降ろしから衆目を逸らせるためのデッチ上げだった……
 可能性も大いに考えられます。

 風聞の相手である平致光は桓武平氏・平高望(高望王)のひ孫・平致頼の子または弟。
 以下はあくまでも可能性として否定できないという程度ですが……
 『小右記』長徳2年(996)2月5日条に藤原伊周の郎等として名の見える「致光」、
 または『同』長和2年(1013)9月27日条、伊勢斎王・当子内親王の行列に見える「致光」、
 などと同一人物かもしれない。もし、もしもそうなら、彼には咎めはなかったのか?



 というわけで、済子の醜聞(スキャンダル)の真偽は疑わしくもありますが……
 まことしやかにささやかれ、語り継がれたのでしょう。
 のちの時代、かの後白河法皇が制作に関わったともされる「小柴垣草子」なる絵巻に、
 その情事が描かれてしまっているとか(春画のような際どい内容のものです)。

 政界の陰謀に穢された、まことに不遇の斎王であったかもしれません。


 [参考文献]
 西穂梓『光源氏になった皇子たち―源高明と章明親王の場合』郁朋社、2008年
 原槇子『神に仕える皇女たち―斎王への誘い―』新典社、2015年
 斎宮歴史博物館 展示解説シート
 浅見和彦校注・訳『新編日本古典文学全集51 十訓抄』小学館、1997年
 東京大学史料編纂所編『大日本古記録 小右記』岩波書店、1959~86年
 経済雑誌社編『国史大系 第5巻 日本紀略』経済雑誌社、1897~1901年

 ※姉ブログ2011年の記事「済子女王というひと」を再構成、大幅に加筆・修正しています※


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